“八雲が女性の容姿を品定めしている”と綴られていた

この記述からは、冨田夫妻が自分たちこそが八雲とセツの結婚を仲介した主役だったと主張したい意図を感じてしまう。「家柄を取り柄に進めてみたら」という表現は、まるで自分たちが積極的に動いて縁談をまとめたかのような書きぶりだ。

なにより、セツへの描写はあまりにも辛辣である。「十人並み」「太っていて」「しとやかではなく」「品位などありません」とは酷い。この時代の歴史資料を読むと刊行物ですら他人の悪口を書いているものを見ることはあるが、これは度を越えている。これは客観的な人物紹介というより、明らかに悪意を含んだ評価だ。なぜ、わざわざこのような否定的な筆致でセツを描く必要があったのか。

さらに証言は、その見合いの様子へと続く。

先生は容姿も風采も気に入りませんでした。私たちに向かって「士族ナイ士族ナイ」というのです。なぜかと尋ねると自分の両腕両股を指さして「ココ大キイ、ココ大キイ、決シテ淑ヤカニナイ、士族ナイ私ダマシマス」というのです。私どもがそんなことはないというのですが、先生は「ノーノー」と繰り返されます。ついにはポケットから5円札を2枚取りだして、これを与えて今日限り来ないようにしてくれと命じられたのです。

辛評が一転し、「飛び切りのよい縁組」と評価

この証言を額面通りに受け取れば、読者はどう思うだろうか。八雲は女性の容姿を品定めし、体つきが気に入らないと難癖をつけ、金を渡して追い返そうとした。まるで鬼畜の振る舞いである。「日本の心」を理解した文豪として称賛される八雲の姿とは、あまりにもかけ離れている。

だが、本当にそうだったのか?

さらに読み進めてみよう。この証言では、その後セツは世間体が悪いと貰われた金で、使いに頭巾を買わせてきて、それを被って帰ったとある。ところが数日経って事態は大きく変わる。

数日後に再びセツさんが来られた時には先生も士族の家柄だということがわかったと見えて、機嫌もよくなりお信に命じてご馳走を用意させました。

そして、この結婚に至った顛末に対する感想を証言しているのだが、前述のセツへの著しく低い評価とは一転して歯の浮くような言葉で褒めている。

枯れ木に花が咲いたようなものです。現在でさえ外国人の妻妾となることは、三府五港(注:東京・京都・大阪・函館・新潟・横浜・神戸・長崎)では珍しくないでしょうが、松江などの田舎においては、そんな例は極めて珍しいものでした。明治23年当時においては飛び切りのよい縁組だったと申さねばいけません。