清書の際に“残してはいけない”と判断された可能性
さっきまでセツに対してこき下ろすような評価をしていたのに、最後は「飛び切りのよい縁組」だったと、自分たちの手柄のように語っている。
もしも、目の前でこんな話を始められたら「この人はなにをいってるんだ?」と誰もが思うだろう。晩年の証言ゆえに記憶が混乱していたのか。あるいは、自分たちの手柄を盛ろうしたらおかしな話になってしまったのか。おそらく記録した藤井も、これは残してはいけないと清書した際には採用しなかったのだと思われる。
では、この話はどこまで信用できるのか?
これとは別に冨田ツネに取材した資料として桑原羊次郎『松江に於ける八雲の私生活』(当初小冊子で配布された後に山陰新報社 1953年)がある。「冨田旅館二於ケル小泉八雲先生」の記録日は1936年。桑原はその後1940年にツネを訪問し話を聞いている。
ここでは、セツに対する辛評はないが「先生にどこか士族のお嬢様を紹介したいというお話が西田先生よりあり」、結果、セツを紹介することになったと語り、士族の娘ではないと怒ったこと、そして、結婚式の際に八雲は紋付き袴を着たが、高下駄で一歩も歩けず不機嫌に靴を履いたというエピソードまで語っている。
八雲の長男「大分話が違う」
いずれにしても、この証言を採用すると八雲がかなり酷い男になってしまう。
八雲の長男・一雄もこの証言が桑原の本を通じて出回ったことには怒っていたようで『父小泉八雲』(小山書店 1950年)ではこう記している。
そして、父は宿で妾を世話しろだの現地妻を取り持てだのという性格ではないし、そういう性格なら母とは結婚していないと続ける。さらには、父が母の手をとり母の手が太いのは機織りをしていたからだと褒めていたことも語る。この部分、かなりのページ数を用いて語っているあたり、息子の立場から冨田旅館の証言が真実として広まるのは我慢できなかったのだろう。
