八雲は“冨田旅館の寄越す女中”にイラついていた

ならば実際のところはどうだったのだろうか。

長谷川洋二『小泉八雲の妻』(松江今井書店 1988年)では、その後の新史料の発見による研究の進展を丁寧にまとめている。この研究成果によれば、八雲は富田旅館の寄越す女中に辟易としていたことが明らかになっている。

その中で重要なのは、八雲が1891年1月24日に西田に送った書簡だ。この書簡は、松江時代の書簡を集めた市川三喜『小泉八雲新書簡集』(研究社 1925年)に所収されているもの。ここでは八雲は明日から新しい女中が来てくれるとして、次のように記している。

この女中はどの旅館の雇いでもないので、この女ならうまくやっていけるだろうと思っています。

こうして、やってきた女中こそがセツだったというわけである。

そして、八雲は「心の落ち着きのためには冨田旅館との関係を一切断つ必要がある」「冨田旅館の紹介する女中に、もう1カ月間、朝の三時前に寝付けないほど煩わされている」とまで記している。それくらいに冨田旅館の寄越す女中にイラついていたのである。

双方の話はまったく逆である。これはどういうことか?

おそらくは双方ともウソはついていないのだ。じゃあ、なにが食い違っていたといえば「女中が欲しい」という八雲のリクエストに対する認識だ。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=trussel.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

冨田夫妻は「先生が妾をほしがっている」と解釈した

八雲が求めていたのは、あくまで家事を手伝ってくれる使用人としての女中だった。英語で言えばhousekeeperやservantである。ところが、周囲の日本人たち……というより冨田夫妻はこれを「先生が妾をほしがっている」と解釈したのである。これは冨田夫妻がおかしいのではない。当時の日本人の感覚では常識である。

例えば、静岡県下田市の偉人に唐人お吉という人がいる。幕末に初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスに雇用されたことで名前を残している人だ。この人はもともとは芸妓だったのだが、ハリスが日本側に「看護婦が欲しい」と要求したとき、日本の側が「看護婦とはなんだからわからんが、きっと妾が必要なのだろう」と芸妓だったお吉を紹介したというものだ。

前述したように冨田夫妻は「年若い娘を一人お側に置くことも考えるべきで、某理髪屋の娘を雇い入れて住み込みさせることになりました」とも語っている。これこそ、妾のよい口があると雇い入れて、八雲の新居に住まわせたわけであろう。

食事や掃除をやってくれる女中を求めているのに、愛人志願の女性が住み込みでやってきたら、八雲でなくても「ラッキー」などとは思わず困惑するはずだ。まして八雲は、当時の下層民をよく取材しており、使用人と雇用主の関係には深い関心を持っていた。