※本稿は、堀江貴文、岩崎ひとみ『小学ゼロ年生 7歳からの進路相談』(小学館集英社プロダクション)の一部を再編集したものです。
教える先生ですら“学びの本質”がわかっていない
現在の義務教育では、学びの本質を知ることはできないと思う。教える側の先生が、学びの本質というものを、上の世代から教わってきていないのだから当然だろう。
学びの本質とは、いったい何か? それは喜びだ。わからなかったことを理解したとき、心に生まれる喜びが、継続して学んでいこうという動機となる。
いまの小学校の先生は、児童に指導しないといけない学習要綱や、職員室内外の業務が多すぎて、この喜びを教える肝心の作業に、手が回っていない。自分たちが子どもの頃、あるいは先生を目指している教育実習のときに、「学びの本質は喜びだ」という考え方を誰からも教わっていないから、子どもたちに伝えようという意識さえ、ないのかもしれない。
もともと人は、知らないことを知っていくプロセスを気持ちよく感じ、知的欲求を自らつなげて成長していくようにできている。しかし教える側の先生が学ぶ喜びを知らないのでは、授業も教室でのお話も、ひどくつまらないものになる。自然に、多くの子どもたちは「勉強って、続けても面白くない」と、学ぶ意欲を失ってしまうのだ。
「可能性のふるい落とし」が構造的に行われてしまう
よくしたもので、つまらない授業を押しつけられても、どうにかして面白さを見つけ出し、独力で学習を続けていく子どもは一定数いる。そういう子たちが成績上位の優等生になり、学歴社会で勝てるプレイヤーに育っていくのだろう。教師の質に頼らず、独力で学んでいく能力は、生まれつきの素質なのだろうけれど、それはそれで素晴らしいと思う。
だが、つまらない授業に、ふるい落とされた大半の子どもたちは、どうだろう? 学ぶ喜びに気づくことさえできたら、やがてすごい才能を発揮したり、驚きの発明を実現させる可能性のある子だって、いたはずだ。
勉強がつまらないという初期設定で、可能性の「ふるい落とし」がなされてしまっているのは、教育現場の大きな問題だ。いまの小学校では、子どもたちの学ぶ意欲の格差と断線を構造的に生み出している。昨日今日に始まった問題ではない。40年以上前の僕が子どもの頃、いやもっと前の時代から、変わっていないのだ。

