西田の日記からわかる小泉夫妻の足取り
その翌月、セツとハーンは鳥取に事実上の新婚旅行に出かけ、八橋(鳥取県琴浦町)という地に逗留。青い海を含めて、そこがよほど気に入ったハーンは、その感動を書簡にして西田に伝えている。
ところで、セツとハーンは松江のイメージが強いが、2人が松江で暮らした期間は1年3カ月ほど(443日)にすぎない。『セツと八雲』によれば、その間の222日ほどは、彼らの足取りがわかるという。ハーンと西田が日常的に手紙を交わしていたうえに、西田が日記を克明につけていたからである。
明治24年(1891)11月、ハーンは熊本の第五高等中学校に赴任する。そこでハーンがなにを考えていたのかも、西田への書簡によってわかる。日本古来の佇まいが好きなハーンにとって、西南戦争で旧城下町が焼けてしまった熊本の景観は醜く見えたようで、「これまで日本で住んでいた一番興味のない都市」とまで、西田に書き送っている。
また、その年末の帝国議会で、第五高等中学校を含む高等中学校の廃止が議決されたときは(結局、廃止は取りやめになったが)、「政府のために働くのは流砂の上に建物を建てるようなものだ」と書いている。セツとの絆は深まっても、英語ができないセツに伝え尽くせない愚痴は、西田に伝えるしかなかったのだろう。
妻と1女3男を残してこの世を去った
その後、ハーンは神戸を経て東京に移る。明治29年(1896)9月、帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)に英文学の講師として招かれる。だが、ハーンは東京を好かず、東京で暮らすのはセツのためだといっていた。「なによりセツは、大都市の匿名性を好んでもいました。地方では当時たいへん珍しかった外国人の妻として心ない視線にさらされることもありました」(『セツと八雲』)。
では、どのくらい東京が嫌なのか。「家賃がただで10年間東京に住むより、1カ月大阪に住みたい」というのがハーンの本音で、それを手紙で伝えた相手は西田だった。
しかし、「お気の毒な事にはこの方はご病身で始終苦しんでいらっしゃいました」と、セツの『思ひ出の記』にはある。「あのような善い人です、あのような病気参ります。ですから世界むごいです。なぜ悪き人の悪き病気参りません」というハーンの言葉も、そこには記されている。
セツとハーンは東京に移る直前、長男で2歳の一雄を連れて出雲に帰省し、久しぶりに西田に会っている。しかし、このときすでに西田の結核は進んでいた。それから半年ほど経った明治30年(1897)3月15日、妻と1女3男を残して西田はこの世を去った。
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