他人からの「いいね」を気にしてはいけない

人という存在は、誰もが生まれた瞬間に「他人に着せられた服」をそのまま着続けているようなものです。生まれる日も、場所も、性別も、体の特徴も、自分で選んだわけではありません。名前も、親に決められました。その親すら、たまたま「親」になっただけです。そもそも、自分から「この世に生まれたい」と希望して生まれてきたわけでもありません。

もし仮に、自分で望んで生まれたのであれば、生まれる日も、場所も、親も、自分で思いどおりに決められ、「望んだとおりの自分」になっているはずです。でも、「私は、何もかも望みどおりの自分だ」と言える人がいるでしょうか。

人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。

その「自分」を受け入れるためには、人から認められ、ほめられなければなりません。自分ではなく人が選んだ服を着ているのですから、誰かから「似合うね」「いいね」と言われて初めて安心でき、その服を着る気になれます。

それで人間の最大の欲求は、自分を「自分」にしてくれた存在、つまり“他人から承認されたい”ということなのです。

むりやり「自分」にさせられた自分と折り合いをつけ、苦しさに「立ち向かう」のではなく、その状況を調整し、やり過ごして生きていく。私がお話したいのは、そういう生き方についてです。

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「なりたい自分」になれなくたっていい

「なりたい自分になる」という言葉があります。

「今の自分」ではなく、憧れの自分になれば、幸せに生きられる。だから努力して、自分を「なりたい」と思う自分に変えていく。そういう生き方です。

私は、このやり方には、無理があると思っています。さきほどお話したように、人は自分自身の「記憶」と他人の「承認」によって規定されている作り物にすぎません。「なりたい自分」の「自分」とは何かすら、はっきりわかっていないのです。

最近よく耳にする「本当の自分になる」「ありのままの自分になる」という考え方も、あり得ません。「本当の自分」「ありのままの自分」とは、一見、なんのとらわれもなく心のままに生きられる、ひとつの理想像のように思えるかもしれません。

しかし、誰が、何を基準に、その自分が「本当」で「ありのまま」だと判定するのでしょうか。私には、それがよくわからないのです。

結局は、「本当の自分」「ありのままの自分」になるために、あるいは「なりたい自分」になるために、記憶と「他人の承認」の中をさまよいながら、「自分は、これでいいのだろうか」と葛藤しているだけになるでしょう。

夢も、希望も、理想もいらない

「今の自分を好きになれないので、本当の自分を見つけたいのです」と訴える方がいますが、自分というものに対して居心地の悪さを感じるのは、当然です。

私たちは生まれたいように生まれたわけではなく、気がついたらそのように生まれついていただけです。いわば他人に仕立てられた、お仕着せの「自分」なのです。最初から寸法が合うはずもなく、無理をしながら「自分」をやっているのですから。