※本稿は、南直哉『新版 禅僧が教える心がラクになる生き方』(アスコム)の一部を再編集したものです。
「自分を大切にする」ことをやめる
人生相談に来られる方々とお話ししていると、ほとんどの方がある勘違いをしていることがわかります。
それは、「自分」という存在がちゃんとあり、その自分を大切にしなければならないと思っていることです。それで、「大切な自分」の人生を充実させなければと考え、思いどおりにいかない日常や人間関係に苛立ち、「私の人生は、もっとよくなるはず」と焦っている。そういう方が多いのです。
「いや、“自分”がいるのは当たり前じゃないか」「自分を大事にするのは当然だろう」と、あなたは思うでしょう。
しかし、そもそも「自分」とはなんでしょうか?
「体」かというと、そうではありません。体の細胞は、3カ月もすればすべて入れ替わります。そうすると、それはもう「別人」です。
では、「心」が自分かといえば、これもまた証明できる話ではありません。「“昨日の心”と“今日の心”が同じだと言える根拠は?」と尋ねられると、答えに詰まるはずです。
そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだと言える根拠は、2つしかありません。
それは、自分自身の「記憶」と「他人からの承認」だけです。
「自分」とはもろい存在である
たとえば明日の朝起きて、もし今までの記憶がすべてなくなっていたとしたら、どうでしょう。今あなたが思っている「私」は、そこに存在しないはずです。
あるいは、明日まわりの人間がすべて、あなたのことを別人のAさんだと言い出したら、どうしますか? あなたはAさんとして生きるか、精神を病むか、自死するしかなくなるはずです。
大げさな話ではありません。そのくらい「自分」とは、もろいものです。
私は「私」であるという記憶。そして、他者から「私」だと認めてもらうこと。この2つのどちらか、あるいは両方を失ってしまったら、自分であることの根拠は消え、「私」はその場で崩れてしまいます。
ふだん、あなたが「私」と呼んでいるものは、突き詰めれば、「記憶」や「人とのかかわり」で成り立っている存在にすぎないのです。その大した根拠もなく存在する不確かな「私」を大切にするとは、何をしたいと言っているのだろうと私は思うのです。
「でも、自分はここにいるじゃないか!」と言う人に、「その“自分”とはなんですか?」と尋ねると、名前や性別、年齢、性格、職業、家族、住所などについて話し始めます。
しかしそれは、その人が「その時点」で持っている属性にすぎません。
それらをすべて取り払ってしまったら、何が残るのかということです。