大ヒット小説で人気に火が付いたが…

まだ明治維新から間もない明治16(1883)年に地元の高知(土佐)の新聞で連載された伝記小説『汗血千里の駒』が人気を博して以降、たびたび坂本龍馬は話題となってきた人物です。

当時の明治政府では薩摩・長州閥の権力が強く、そこで土佐の人間も忘れるなということで坂本龍馬が持ち出されたという話もあります。しかし、その後、現代まで続く坂本龍馬の不動の人気を決定的なものにしたのは、やはり司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』でしょう。

それは新撰組にしてもそうです。早いものでは、新撰組の生き残りである二番隊隊長の永倉新八が記者の取材に協力した『新撰組顚末記』などが大正2(1913)年に小樽新聞で連載されています。

昭和3(1928)年に刊行された子母澤寛『新選組始末記』でその存在が一躍知られるようになり、やはり司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』の人気によってさらに火がつきました。今では、漫画やアニメ作品などの題材になることも多く、特に隊士たちを美形・イケメンキャラで描くなど、女性人気も高い存在となっています。

そんな人気のためか、しばしば近現代史の先生が揃って語る悩みに、「坂本龍馬か新撰組で卒業論文を書きたがる学生が多い」ということがあります。先に述べたように、坂本龍馬も新撰組も、歴史学では評価しづらい存在のため、確実な論文を書きたいなら、テーマを変えるように指導をしているとのことでした。

実質的には西郷隆盛の「使い走り」

新撰組は京都の市中の治安を守る一種の警察組織ですから、歴史の大きな流れに影響を与えたかどうかという観点で言えば、学術的な対象になりづらいのはわかります。しかし、坂本龍馬の場合はどうでしょうか。

一般的には、坂本龍馬は倒幕の原動力となった薩長同盟を結ばせた立て役者ということになっています。けれども薩長同盟の主体は、あくまでも薩摩藩と長州藩です。

この場合、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎がすごいのであって、仲立ちをしたとされる龍馬は、そもそも当事者ではありません。一部の研究者によれば、坂本龍馬は「西郷の使者」に過ぎず、西郷の命で動き回っていた使い走りなのだから、薩長同盟への貢献はさほど認められないのだそうです。

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龍馬の発案としては、「船中八策」が知られていますが、これも龍馬本人にオリジナリティがあるものとは言えないそうです。

以前、徳川家19代目の御当主で、歴史研究家でもある徳川家広さんとお会いしていろいろとお話を伺ったことがありました。そのとき、家広さんがおっしゃっていたことに、「日本三大どうでもいい事件」というものがあります。

世のなかには、未解決のために陰謀めいた説を含めてさまざまに論じられている事件がありますが、なかでも取り上げることすら意味のないものが3つあるというのです。