福沢諭吉の全裸事件

桃介は「日本の電力王」と評価される一方、「不品行」「山師」「相場師」などマイナスの評価も多い。実際、諭吉も「桃介が相場師になってしまった」と嘆いていたが、桃介は、ある意味、諭吉の主張を体現したともいえる。自由になるために金の重要性を説いた第一人者が諭吉だった。

福沢諭吉と聞くと品行方正のイメージが強く、慶應義塾大学の学生が破廉恥な行為で話題になると「諭吉が泣いている」とネットには書き込まれるが、諭吉もそこまで清廉潔白ではなかった。今ならば「やんちゃ」と括られてもおかしくない一面を持ち合わせていた。

諭吉は1835年、豊前国中津藩(現大分県中津市)に5人兄弟の末子として生まれる。19歳で長崎に遊学、翌年には医師緒方洪庵こうあんが開く大坂の適塾で蘭学を学んだ。

適塾正面(日本国指定の重要文化財)(写真=Reggaeman/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

その塾生時代の話だ。夕方に酒を飲んで2階で寝ていた諭吉を「福沢さん、福沢さん」と階下から呼ぶ声がした。寝たばかりの諭吉としては、ご機嫌斜めだが、呼ばれたら起きざるを得ない。

「うるさい下女だ! ふざけやがって」と真っ裸ではしご階段を飛び降り、「何のようだ」と裸で通せんぼしてみたら、そこにいたのは下女ではなく洪庵の妻。

全裸でお辞儀もできずにまごついていたところ、洪庵の妻は何も言わずに奥の方に引っ込んでしまった。翌日も「全裸でブチ切れて、ごめんなさい」とは言えずに結局死ぬまで、わびることはなかったと悔いている。

「諭吉が泣いている」ではなく…

そもそも、福沢は洪庵の妻に全裸で突撃する前に仲間たちとも全裸事件を起こしている。

酒が入ったので仲間たちと物干しの上で飲もうと思ったところ、先客の娘たちが涼んでいた。邪魔な娘らを蹴散らそうと仲間のひとりが、全裸で乱入したため、娘たちはパニックになり退散。もくろみ通りに場所を奪い取り愉快に酒を飲んだと振り返っている。

本人も仲間も、どれだけ全裸好きなのだろうか。当時は若気の至りですんだだろうが、現代ならばSNSで血祭りに上げられるのは間違いない。「諭吉が泣いている」のではなく、諭吉とその仲間たちに泣かされた人も少なくないだろう。

もちろん、人間にはいろいろな面がある。これは諭吉のB面だ。諭吉の学問への姿勢や識見などの功績、A面は揺るぎようがない。緒方洪庵のもとで、蘭学を学んだ後、幕府に仕え、明治維新後は民間人として教育、言論に力をそそいだ。

諭吉は「独立自尊」を思想の根底においた。これはざっくりいうと、他人は他人、自分は自分ということだ。世間的な価値基準にまどわされず、自分の価値基準を堅持しなければいけない。組織や共同体の価値観を超えた理性で判断することの重要性を説いた。