※本稿は、諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
身分制度嫌いは父親ゆずり
江戸時代後期、下級武士の家に生まれながらも、新生日本の思想的リーダーとなった福澤諭吉。父・百助(42歳)、母・順(30歳)のあいだに、5人兄妹の末っ子として天保5年12月12日(1835年1月10日)に生まれた諭吉は、幼い頃から「門閥(もんばつ)制度」を嫌っていたといいます。
「門閥」とは、簡単にいえば「家柄」や「格付け」のこと。豊前国(ぶぜんのくに)中津藩(現在の大分県)の下級武士の子として生まれ育った諭吉は、位が上の武士の子どもに対しては敬語を使わなければならないなど、特権階級であるはずの武士同士であっても身分差が存在することを、身をもって体験していました。
諭吉の父も息子と同じく、権威や封建制度といった古い風習を嫌っていたようです。父は幼い頃から勉学に秀でていたものの、家が貧しかったため、自分の師と慕う儒学者のもとで学ぶことができなかった。諭吉が晩年になるまで「門閥制度は親の敵(かたき)」と口にしていた原因の1つは、ここにありました。
近所の孤児のシラミをとってあげる母
ただ、父・百助は酒豪で、一説によるとそれが原因で45歳という若さで脳溢血により亡くなってしまいます。この時点で、百助の妻、つまり諭吉の母・順は未亡人、いまでいうところの「シングルマザー」となりました。
では、その後、諭吉の母親はどうやって5人の子どもたちを育てたのか?
諭吉の語るところによると、父が「何でも大変喧(やかま)しい人物であった」一方で、母は「決して喧しい六(むつ)かしい人ではない」と評しています。また諭吉は、「さっぱり、大らかで、とても慈悲深く、かつ極めて几帳面な性格だった」とも書き残しています。
母・順との思い出には、このようなものがあります。母に、時折面倒を見ているチエという家なき子がいました。その子がたまに家に来ると、母は髪を整えてやり、頭のシラミを取ってあげた。幼い諭吉は、母のそのような行為をよく理解できなかったといいます。
ある日のこと、なぜチエのシラミを取ってやるのだと諭吉が母にたずねると、母はこのようなにいいました。「チエはシラミを取ろうと思っても取れない。ならば、できる人がそれをしてあげればいい。それが当たり前のことでしょう?」
諭吉はその言葉を聞いてハッとし、それまでの考え方を改めたといいます。
母は、相手が貸したことをとっくに忘れていた頼母子講(たのもしこう。当時の民間金融の一種)の金2朱を、10年も経ってからわざわざ諭吉に返しに行かせたという話も伝えられます。母・順の、このような清廉潔白で正直な性格を、諭吉も大いに見習ったはずです。