外部からの影響を受け始めたナヤール族
ケララに変化が訪れたのは、19世紀のことだった。それは皮肉なことに、好奇心をそそられつつも苦々しく感じていた外部の人たちの考え方によるところが大きかった。
この地域を占領したイギリスの入植者らは、現地人のキリスト教への改宗を目指す宣教師らとともに、母系制を守るケララの人々に対して、ヴィクトリア時代のジェンダー規範に従うよう強制した。
「植民地主義は、現地人よりも心理的に優位に立とうとするあまり、支配国の道徳的な優位性をさりげなく、あるいは少々あからさまに主張せざるをえなかったようだ」と歴史家のウマ・チャクラヴァルティは書いている。
もともと、母系大家族(タラヴァード)のなかで年長の男性は、家族内の女性と権力を分かち合っていたが、19世紀のあいだにそうした状況は徐々に変わっていった。状況や年齢によって違いはあるものの、男性は単独で、揺るぎない権力を握るようになる。
植民地時代の裁判の判決は、母系社会を「文明化」することを意識していたため、母系大家族(タラヴァード)で最年長の男性の地位を引き上げようとした。それに伴い、家庭内の紛争が相次いだ。
1855年の裁判で、ケララ最大の都市で当時はイギリス直轄下に置かれていたカリカットの判事は、「女性だけに権限があるというのは……じつに乱暴な考え方である」と述べたという。
女王に息子が生まれても王位を譲らなかった
女性が本来どのくらいの力をもつのが自然なのかという問題は、1810年にトラヴァンコール王国(訳者注:ケララ州南部に存在したヒンズー王朝)の女王ガウリー・ラクシュミーが即位した頃には、すでに持ち上がっていた。
女王は息子を出産すると、王位を息子に譲るよう求められたとマニュ・ピライは説明する。だが、女王は王位を譲ろうとせず、息子が統治できる年齢になるまで一時的に「摂政」という名の地位に就いた。それはほとんど意味のない称号だった。
イギリス当局が女王の権威を弱めようとしても、現地の人々は、彼女を正当な君主として当然のように受け入れ、女王の権威はなんら制限されなかった、とピライは指摘する。そして、それは女王の死後、その妹が王位を継いでからも続いた。
女王は公文書のなかで、通常はインドの藩王に与えられる称号である「マハラジャ」と呼ばれたほどだった。
父系制よりも男女が比較的平等な母系制のもとでは、「君主の性別はあまり意味をもたなかった」とピライは書いている。「重要なのは立場とその威信であって、国家や王家で最高の権威を振るう者がマハラジャとみなされた」。