変化はゆっくりと忍び寄ってきた

とはいえ、数十年が経つうちに、ナヤール族の家族観の変化を求める圧力が狙いどおりの効果をもたらすようになる。教育を受けた若い改革者たちは、過去との決別を望むようになった。どうやら自分たちの伝統が、外部の人から見ると、後進的な恥ずべきものに見えるらしいことに気づいたからだった。

一夫一婦制の結婚や小規模な家族は、近代的なものとして徐々に受け入れられていった。文学や芸術にも、社会での女性の立場についての考え方の変化が表れるようになった。文化が変容し、それに合わせて、人々の自己認識が変わっていったのだ。

現在、存続をかけて試行錯誤しているさまざまな母系社会と同様、当時のナヤールの母系大家族(タラヴァード)では、変化は激しい嵐のようにやって来たわけではなかった。変化はゆっくりと忍び寄ってきた。

母系大家族の終焉、一夫一妻制の採用

家庭内で誰を権力者と見るのが自然なのかについて、考え方が少しずつ変わっていった。植民地の支配層や熱心な宣教師の努力だけで変わったわけではない。現地の人たちの支持もあった。新しいやり方のほうが有利になると考え、共同世帯の終焉を、家族の権限、財産、富の一部を手に入れるチャンスだと歓迎する者たちがいた。

ジェンダー規範の変化には、法律の後押しもあった。アルニマによると、1912年には、トラヴァンコール王国で新しい法律が制定され、母系的な要素が薄まる。これは、今までは簡単に終わらせることができた男女のパートナーシップを、一夫一妻制の法律婚の枠に当てはめようとするものだった。

新たに夫という立場を得た男性は、それまでは自分の母親の家族と共有していた財産を、自分の妻や子どもに譲ることができるようになった。妻は離婚後に養育費を受け取ることができたが、それは「不貞行為」をしていない場合に限られた、とアルニマは言う。つまり、従来女性に認められていた性的自由は、事実上なくなったのだ。

変化はゆっくりと少しずつ起こったが、それが次第に積み重なっていった。やがて、インドがイギリスの支配から独立して数十年が経った1976年に、母系大家族(タラヴァード)にとどめが刺された。その年、ケララ州議会は母系制を完全に廃止したのである。

20世紀の末になると、かつて母系家族が暮らした広大な家屋は、荒れ果ててしまった。状態のよいものは売却され、取り壊されたものもあった。デリー大学の社会学者で、ケララでフィールドワークを行ってきたジャナキ・アブラハムは、その頃には母系大家族(タラヴァード)がほぼ完全に崩壊したと指摘する。

アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』(集英社コモン)
アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』(集英社コモン)

高齢の人たちは、昔は子どもを含む大勢の家族が同居していたと懐かしみ、「時にはクリケットチームができるくらいの人数がいたんだ!」と言う。いまや現存する家屋には、「わずか数人の老人が暮らし、多くの家屋は施錠され、周りに草が生い茂り、荒れ果てていた」。

ケララにおける母系社会からの移行は、心の痛みを伴いながら、1世紀以上をかけてゆっくりと進んだ。原因は1つではなく、必然でもなかった。

移行が終わりを迎える頃、人々は初めて失ったものの大きさに気づいたのである。

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