父親は自分の子どもではなく、姉妹の子どもの世話をする
一生を通じて母親の家族と同居や近居をする母方居住は、母系制と密接に関係していることが多い。そして、こうした母方居住の社会の少なくとも一部は、数千年も前から存在していたと考えられている。
2009年、何人かの生物学者と人類学者が科学雑誌『プロシーディングズ・オブ・ザ・ロイヤル・ソサエティB』に寄稿し、このことを証明した。遺伝学的証拠と文化的データや家系図を使って、たとえば太平洋地域の母系コミュニティの起源が5000年もさかのぼる可能性があることを、彼らは明らかにした。
当時と生活習慣は変化していても、母系制と母方居住という「スタイル」は、その地域の人たちのあいだに現在も息づいていた。
ジャーナリストのマドハヴァン・クティは、1991年に現地語のマラヤーラム語で執筆した回顧録のなかで、自身が生まれ育ったケララの母系社会の日常を詳しく描いている。この回顧録はのちに『かつての村(The Village Before Time)』という題名で英語に翻訳された。
ナヤール族では、結婚すると小さな核家族に分かれるのではなく、数十人規模の大きな母系大家族(タラヴァード)で一緒に暮らしていた。全員が一人の女性を祖先にもつ大家族だった。
兄弟姉妹は一生、一つ屋根の下に暮らした。女性は複数の性的パートナーをもつことを認められ、必ずしも性的パートナーと一緒に暮らしていなかった。つまり、父親は子育てで大きな役割を期待されておらず、むしろ自分の姉妹の子どもを育てる手伝いをしていた。
女性の性的権利は男性と同等だった
巨大な母系大家族(タラヴァード)に生まれたクティは、彼の家の家系図には娘だけが記されていたと述べている。
クティの祖母、カルティヤヤニ・アンマはやがて、一家の家長になった。現地の習慣に従って、彼女は乳房を隠そうとはしなかった。「彼女の深い意識の底には、豊かな歴史が刻まれていた……この大家族の女家長は、不屈の精神と知性をもち、女性の自由について深く憂慮していた」という。
ナヤール族は、小さな取るに足らないコミュニティではなかった。社会的地位への関心が高いこのインドという国で、ナヤール族は高い地位を築いていた。
ケララ生まれの作家であるマニュ・ピライは、20世紀の中頃まで200年以上にわたってケララ南部に広がっていたトラヴァンコール王国の歴史を追い、「ナヤールの女性は、生まれた家に一生を通じて守られ、夫には依存しなかった」と著書『象牙の玉座(The Ivory of Throne)』で書いている。「彼女たちは夫を亡くしても、悲惨な状況にはならない。性的権利は男性と事実上同等で、女性たちは自分の身体を完全にコントロールできていた」。