本質的な問いなくして文章は書けない

本質的な思考を伴わずに文章を書くと、その文章は薄っぺらなものになります。本質的な問いをせず、考えもしなければ、誰かと同じような文章を書き続けるでしょう。

ありふれた主張、他人と同じ表現で書かれたものを誰が読むでしょうか?

さらに、深淵しんえんに沈む自身の心も、拾い上げて書くことができません。自分の心もわからないのに、どうして他者を理解できるのでしょうか? 結果として、相手についての理解の幅が狭まるのです。

これらすべてが合わさったら、書くネタもなくなります。本質的な問いなくして、思考の多様性も、豊かな文章を書くこともできないのです。

以上のように、『聖書』、『仏教聖典』、『論語』が千年の時を超えてもなお感動を与える理由は、人類の愛と正しい生について徹底的で根源的な苦悩が書かれているためです。

古典を読み、根源的な問いをすることは、考える力となり、深みのある多様な文章を生み出します。

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古典を読む最大の障壁は「難解なこと」

古典をどのように読めばいいでしょうか?

読まなければならないとわかっていても、なかなか読む気になれません。『トム・ソーヤーの冒険』(柴田元幸訳、新潮社、2012年)を書いたアメリカの作家マーク・トウェインはこう言います。

「古典は、みんな一度は読んだほうがいいけれど、誰も読みたがらない本だ」

おもしろいですよね。文章を生業とする作家にとっても古典はむずかしいのです。これはアメリカの作家に限ったことではありません。

私のエピソードを紹介します。

イ・ジソン作家の『リーディングでリードしよう』(未邦訳)を読んで、古典を読む意欲が湧きました。

私は特に考えもせず、古典の中の古典であるダンテの『神曲』やゲーテの『ファウスト』を選びました。とても難しかったです。文章自体が理解できませんでした。本を破ってしまいたくなりました。

しかし書評は、「気づきをくれた、よろこびを感じた」という賞賛の嵐でした。

文章が理解できず線まで引きながら読んでいた私は、気後れしてしまいました。難読症かと悩みもしました。

ところが、朴婉緒パクワンソ作家の『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか』(真野保久他訳、影書房、2023年)を読んでから、自分は間違っていなかったのだと気づきました。朴婉緒作家はこう書いています。

『ファウスト』や『神曲』は盲目的な使命感がなければ、難解で到底読めなかった。けれど無理やり読んだのがよかったとは思えない。どういう意味なのか理解もできず、とにかく読んだけれど、二度と読む気にはならなかった。この本をよかったと言う人がいると、それは本当に理解して言っているのだろうかと、私は劣等感半分、疑心半分で受けとめた。

――朴婉緒、『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか』より

古典は大作家でもむずかしいのです。古典を読むのがむずかしいと告白した作家には、ユ・シミン作家もいます。ドイツ語の原書と韓国語の翻訳版で、計2回もカントの『純粋理性批判』の序文を読んだのに理解できなかったと『表現の技術』で告白しています。

さらに興味深いのは、作文講座で聴衆数千人に「『純粋理性批判』を最後まで読んだ人はいますか?」と聞いたところ、手を挙げたのはたったひとりだったというエピソードです。数千人中で、たったのひとりです。

このふたつの事例から、なぜ古典がむずかしいのかがわかると同時に、どのように読むべきなのか、方法を見いだせるでしょう。

むずかしい理由を3つに分類し、簡単に読む方法を説明します。

1.古典の内容がむずかしい。またはむずかしい古典を選んでいる
2.古典的な文体で読みづらい
3.翻訳が誤っている