激しい風雨にさらされる環境が島を「鉄壁の城塞」に変えた
野母崎半島の脇にポツンと浮かぶ端島は、常に波風にさらされる環境に置かれている。外海は水深が深く、潮の流れが速い上に波が荒い外海だ。特に、外海に面した島の西側は、強い風雨、波の影響を受けやすかった。そのため波風から島を守るために、端島では護岸が整備されていった。
島の唯一の産業である炭鉱施設や、玄関口である桟橋は、少しでも波や風を避けられるよう島の東側に集中。ただ、海が時化てしまうと船の着岸が困難となり、生活物資の輸送がままならなくなる事態も起きていた。
中でも台風は、甚大な被害をもたらす自然の驚異であった。台風襲来時には、島を飲み込むほどの大波が押し寄せ、護岸に当たって砕けた波しぶきは高さ50m近い島の最頂部にまで届くこともあったという。
風速30mを超える強風も珍しくはなく、周辺を漁場とする漁船も恐れるほどの突風が吹くことがあった。島内が被害に見舞われたり、波により人工地盤が削られたりしてしまうこともあったようだ。
端島に人が住んでいた時代、とりわけ被害の大きかった台風が、1956(昭和31)年の台風9号と、1959(昭和34)年の台風14号だった。台風9号は秋田県や北海道で猛威を振るった台風だったが、端島でも島の南側と西側の護岸が約100mにわたって崩壊し、木造商店なども被害を受けた。この時は波高8mもの大波が叩きつけたという。沖縄県宮古島で多数の住宅が損壊し「宮古島台風」と呼ばれた台風14号では、端島内の体育館や、ドルフィン桟橋2号が破壊されている。
「台風を怖がっていては本物の島民にはなれない」
ただ、端島の住民にとって脅威だったはずの高波は、日常の光景の一部であったのもまた事実だ。台風が島に接近した際に危険なのにもかかわらず、大波見物に出向く住民も少なくなかったようだ。「台風を怖がっていては本物の島民にはなれない」とも言われていたらしい。
とはいえ、台風などによる波浪被害は軍艦島の暮らしには死活問題だった。そこで島の発展に伴い、さまざまな対策が講じられてきた。現在の端島の特徴的な景観のひとつである城壁のようにそびえ立つ護岸は、波から島を守る最前線の“防衛施設”だった。
自然石と自然石の間を、石灰と赤土を混ぜ合わせて造った凝固剤「天川」により固めて積み上げた護岸は、海上から高さ10mほどもある。天川を用いた護岸は昭和初期まで造られたが、その後はコンクリートを用いた護岸に移り変わっていった。
人が去り、島全体の風化が進行する現在でも、コンクリートが崩落する一方で、天川による石積み護岸は大半が残存している。水に溶けにくい天川の性質が、崩壊防止に役立っている。
護岸で囲まれた島内の居住区にも、防潮対策は随所に施されている。