もし政宗が「全員撫で切りした」という嘘をついていたら?
では最後に軍記『奥羽永慶軍記』[八]を取り上げる。これは近世の秋田藩士が書いた軍記で、伊達政宗を立てる理由は何もない。
同書は多くの歴史事件を記していて、明らかな事実誤認の記述も見られるが、軍記の研究者たちからは「奥羽における戦国時代を考える上でも、もう一度、史料的にも検討し直してみる必要がある」とされており、全てを荒唐無稽と切り捨てることのできない貴重な文献のひとつである(『戦国軍記事典』[群雄割拠篇])。
もちろん近世の戦国軍記ならば、もし政宗が小手森城で虐殺を命令した事実があれば、これをベースに誇張を交えて面白おかしく描いたはずである。
あるいは、軍記の一般様式として、「通説はこうだが、歴史の事実はこうだ」という書き方をしたことだろう。
ところがこの軍記には、政宗が虐殺したという話を一切記さない。どうやら、世間一般にそのような認識がなかった可能性がある。
伊達軍による小手森城の制圧と城中の人々と動物の絶命は揺るぎない事実だが、政宗の虐殺命令はあまり拡散していなかったのではないか。
ここに書かれている内容を見てみよう。
石川勘解由が交渉を申し出て、決裂するまでの流れは同じである。
ところが、小手森落城のくだりでほかの文献と異なる内容が現れる。
小手森城の武将が城中の者に「自害せよ」と命じたか
伊達軍と戦うべく、城から打って出た小野半兵衛が、深傷を負って城中に引き上げたところから転写転載しよう。
この記録によれば、城中の者たちは、伊達政宗の命令ではなく、城将の小野半兵衛の命令で、自発的に死んでいったとされている。
軍記は人々の覚悟の固さを褒めているが、不本意な死を迎えた者もいたに違いない。
半兵衛が大声で、伊達軍に略奪させず、武功を与えるなと命ずる描写から、この記主は読者にそうした印象が残ることを想定したと思われる。
なお、物資や人材の略奪は、戦国史料によく見られるが、ここで半兵衛が危惧したのは兵士の私的な略奪よりも、軍隊の公的な接収行為だろう。
特に馬や牛は持ち運びに困るから、兵士ひとりひとりが私的に奪ったら、次の軍事行動に差し障りが生じる。これらは総大将が組織的に管理して、組織的に配分させると考えてよい。
ここから小手森城事件の秘話が見えて来る。