商売好きでエネルギッシュな母

商売をすることが大好きだった母親はさまざまな仕事に携わったが、なかなか生活は安定しなかった。戦後の混乱期、日本人でも生きていくのが大変だった時代に、台湾人である女性が子ども4人の家計を支えていくのは、並みたいていの苦労ではなかった。

それでもなぜか、斉さんはひもじい思いをした記憶がないという。

【斉】 台湾には挨拶代わりに「ご飯食べた?」と尋ねる習慣があるぐらいですから、何はなくとも、ご飯だけは満足するまで食べさせてくれたんでしょうね。

貧しい生活ではあったけれど、母親は必ず年に2度、年越しと学校の遠足の時には決まって洋服を新調してくれた。

【斉】あんまり有難くて、あんまり申し訳なくて、私、母に甘えることができなくなった。ああしたいこうしたいと言うことができませんでしたね。

ちょうど斉さんが小学校を卒業する頃、母親は知人の紹介で日台間の貿易を手掛けることになった。日本の洋服を台湾に持っていって販売するのが主な仕事だったが、これが当たって斉さん一家はようやく一息つくことになった。

【斉】台湾は親日的なので、日本の製品を持っていくととても喜ばれたんですね。借金をして始めたんですが、うちの母は手ぶらで帰ってくるような人じゃなかったから(笑)、帰国する時、船いっぱいに青いバナナを積んできたこともありましたよ。船便はゆっくりだから、バナナを熟成させるのにちょうどよかったんですね。

うちの母は面白い人でね、ダンスに夢中になっちゃったりして、台湾に行ったきり半年も帰ってこなかったりするの。小さい子どもを家に置いたまま。家を長く空けるのは、父よりのびのび外で仕事をする母の方でした。

小学6年生で決めた大人のような覚悟

 父親から愛情を感じたことはあまりなかったという斉さんだが、では、母親から愛情を感じたことはあったのだろうか。

【斉】たとえば妹のひとりが風邪を引いて、鼻が詰まって息が苦しいなんていう時には、躊躇ちゅうちょなく鼻を吸ってあげることができる人でした。一見、子どもに関心がなさそうなんだけど、それぞれの子どもの個性を理解してくれていたように思います。結婚してアメリカに渡った三女は勉強が好きだったんですが、先日、みんなでアメリカ旅行をしたとき、三女が「勉強のことはわからないけど、お金は出すから好きなことをやれってママから言われた。うちのママは面白いよー」なんて言っていました。

賭け事が好きで家事と料理が得意な父親と、自由奔放でエネルギッシュな母親に育てられた斉さんは、小学校6年生の時、あることを決心する。それは、子どもらしい夢や憧れといった類のものではなく、もっと強くて固い、人生の核になるような決心だ。

【斉】4人姉妹の長女だったから長男みたいな責任感もあって、将来、必ず独立して、自分のお店を持とうと決心したんです。妹たちはあまり知らないことですが、私は、お金がなくて母が苦労する姿を見て育ったので、「私はこういうお店を持っています」と言える職業を身につけようと思ったんです。

ほっとするよりも、むしろ胸が苦しくなるようなエピソードである。