もはやこれは国家行事である
出発後もかなり気合が入っており、道長の土御門邸からは近道があるのに、わざわざ遠回りをして朱雀門の前でお祓いし、石清水八幡宮や大安寺など、いくつかの寺社を経て8月11日、金峯山に到着した。だが、そこにいたるまでも、かなりの苦労が重ねられた。
奈良の大安寺に宿泊した際は、僧が手厚い準備をしてくれていたが、『御堂関白記』によれば、宿所が華美で金峯山詣に相応しくないからと、南中門の脇で寝たという。道長の気合のほどがわかる。また、数日来雨が降り続いていたので、吉野の麓に到着してからは、かなりの苦労があったという。
道長は奉納するために持参した金堂製の経筒に、「寛弘四年八月十一日」と彫りこんでしまっていたので、なんとしても11日に着かなければならない。だが、足元は雨でぬかるんでいる。そこを道長も、馬や輿に乗らずに自分で歩かなければならなかった。途中には鐘掛岩という難所があって、鎖を伝わって登る必要があった。
しかも、道長だけではない。大勢の僧や人足を引き連れていた。また、道長は金峯山に絹や布、紙、米など大量の品々を献上したが、人足はそれらを担いで登らなければならなかった。なにしろ『御堂関白記』には、布を「百端」、米を「百石」などと当たり前のように書かれているが、運ぶのは容易ではなかっただろう。
それでも無事に予定の8月11日、頂上に到着しているから、いかに強行軍であったかがわかる。
こっそり奉納した「性欲を開放する経典」
金峯山では先述した経筒に、法華経などみずから写した数々の経を納め、山頂にあって蔵王権現が湧出したと伝わる湧出岩の前に埋めた。この経筒は、それから700年近く経った元禄4年(1691)に発見され、いったん埋め戻されたが、近代にふたたび掘り出され、現在、国宝に指定されている。
経筒の周りには、写経の経緯について道長の文が記されているが、極楽往生への願いにしか触れられていない。だが、『御堂関白記』に記された、金峯山における道長の行動からも、この参詣の最大に目的が、彰子の皇子懐妊祈願であったことは明らかである。
道長は8月11日に頂上に着いたあと、まず湯屋に行って水を浴び、罪障を清める解除を行った。その後、真っ先に向かったのは「小守三所」だった。これがどういう場所であったか、確定しているわけではないが、現在では子供を授かりたい人が祈願に行く場所になっている。むろん、当時も「小守」とは子供を身ごもることを指し、それを祈願する場所だったと推定される。
また、道長はさり気なく「理趣分八巻」も奉納したというが、「理趣分」とは性欲を開放する経典なので、一条天皇と彰子とのあいだに皇子が生まれるように、という願いが込められている可能性が高そうだ。「金峯山詣」はまさに、道長が外戚として君臨できるかどうかを賭けた一世一代の行動だったのである。