金峯山詣の御利益とは
道長は弥勒経三巻、阿弥陀経、般若心経など数々の経を、連れてきた僧侶たちに読経させ、金峯山に奉納した。その僧侶というのが、延暦寺や興福寺、東寺などから集まった錚々たる高僧ばかりだった。だから、倉本一宏氏は「これは道長の金峯山詣が国家行事でもあったという証しです」と書く(『平安貴族とは何か』NHK出版新書)。
皇后が、要は自分が送り込んだ娘が、皇子を出産してほしい――。そんな願いのために、これほどの「国家行事」を催してしまう道長は、はたして「光る君へ」で描かれているような、私欲のない公正な政治家だったといえるのか。
もっとも、彰子が皇子を産み、その皇子が即位したのち道長が外戚として君臨すれば、政権は安定する。それを目指すことが公共の利益にかなったという面は、宮廷社会の常識に照らしたとき、一概には否定しきれないのだが。
さて、道長の大願は成就し、金峯山詣が行われた寛弘4年(1007)の年末、彰子は懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、念願の皇子(敦成親王)が誕生した。
最高権力者である道長が、彰子の懐妊を願ってこれほど大騒ぎをしている以上、一条天皇としては、なにもしないわけにはいかなかっただろう。道長の行動が一条にあたえたプレッシャーは、測り知れないほど大きかったに違いない。こうして一条天皇を動かしたのもまた、金峯山詣での「御利益」といえるかもしれない。