中学を出て東京の工場で働くが、行き場をなくして上野へ

このままこの土地に残っても、地元で名士といわれる家のお手伝いさんか、子守になるくらいしか道がない。そうすれば、またひどい扱いを受け、みじめな思いをするかもしれない。それは嫌だと考え、アカネさんは中学を出てすぐに上京し、東京の工場で働き始めた。しかし、事情があって工場をやめざるを得なくなり、上野へ行った。

行き場を失ったアカネさんは、先述したべリーさんと同様に、上野で娼婦と知り合う。その娼婦から「朝霞に行ってみな」と言われ、朝霞の地を踏んだ。工場には1年もいなかったので、16歳ぐらいの頃だ。

「それからは住むところもない、乞食パン助だった。トシ坊が見てたとおりだよ」

アカネさんも例にもれず、「白百合会」というパンパンのグループに入った。田中さんによれば、白百合会には厳しいルールがあったが、アカネさんのように若い女性がやって来ても生き延びられるよう、食べ物を買うためのお金をわたしたり、雨風を避けられる野宿の場所を教えたりしていたという。そのおかげでアカネさんもパンパンとして食いつなぐことができた。

「朝霞に行ってみな」と言われ、16歳で「パンパン」になる

アカネさんは、自分は「オンリー」にはならない、と決めていた。オンリーは相手がいる間は比較的安定した収入があり、家や物資を与えられるが、契約を交わしているわけではないので、いつ相手が米国に帰るなどしていなくなってしまうかわからないし、心変わりして別の女性と関係を持つ可能性もある。そうすればたちまち経済的に困窮するので、自分はオンリーはいやだ、不特定多数を相手にした方がいい、と考えたらしい。

このためアカネさんは、米軍基地に入ったことはない。田中さんに「入りたくないよ」と言い、こう続けたという。

「仕方がないから(米兵を)お客にして、おぞましいことをされているんだ。夜空の星を見ながら歯を食いしばって、アメ公が果てるのを待ってるんだよ。そんなことをするアメ公がいっぱいいるようなところへ誰が行けるか。ふざけんじゃないよ」

また、日本人を相手にしたパンパンもいたが、アカネさんは日本人の客は一切とらなかった。日本人の場合、同胞割引といって、米兵より2割ほど安くする習慣があった。「戦地から生きて帰って来てご苦労様でした」という意味が込められていたらしい。しかし、アカネさんは2人の兄を戦争で亡くしたといい、「兄のことを考えたら、戦争から帰って来たからってなんで2割引で体売らなきやいけないんだ」と田中さんに涙を流して語った。

写真=共同通信社
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