漱石が『三四郎』で触れた富士山
明治の文豪、夏目漱石(1867~1916)が富士山の「文化的景観」を論じている。
1908年、新聞連載小説『三四郎』を発表した。その中に富士山が登場する。
東京大学に合格して、熊本から上京する三四郎は蒸気機関車の中で、広田先生と偶然出会う。そこで、広田先生が富士山を話題にする。
「あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」
そんな話をしたあと、突然、広田先生は「(日本は)亡びるね」と思い掛けないセリフを口にした。
三四郎がびっくりしていると、広田先生は「日本より頭の中の方が広いでしょう」と言い、「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」と続けた。
日本一の名物・富士山を車窓から眼前にしながら、日本そのものが「亡びる」と言うのだから、驚かないほうがおかしい。
ふつうに考えれば、富士山が大噴火して、日本列島に大異変でも起きると思ってしまうだろう。広田先生の謎の話はわからずじまいになってしまう。
崇高であり、偉大であり、雄壮
その後、東京で生活を始めた三四郎は広田先生と再会する。そこで、広田先生は再び、富士山を話題にする。
「富士山に比較するようなものは何にもないでしょう」
三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓から初めて眺めた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。(略)
「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」
つまり、富士山は崇高であり、偉大であり、雄壮といった人格を有しているというのだ。
これであれば、富士山を「文化遺産」と見てもおかしくはない。ただそう思うのは人間の側の勝手な印象でしかない。
ところが、崇高で偉大で雄壮な日本一の名物・富士山を自慢しても、肝心の日本が亡びてしまうらしい。そう広田先生は言うのだ。