今の鈴木市長は、浦上天主堂を撤去してしまった田川市長の孫

田川市長は、最初は浦上天主堂の保存に前向きだったと言われるが、姉妹都市提携を結んだアメリカ・ミネソタ州のセントポール市を1956年に訪問した後に態度が変わり、撤去に踏み切った。

キリスト教の殿堂を破壊し、キリスト教徒が多数虐殺されたことが、浦上天主堂の残骸を通して可視化されていたら、欧米へのインパクトも大きかっただろう。鈴木市長は、祖父が浦上天主堂を撤去したことをどう思っているのだろうか。

ただ、浦上天主堂の保存問題は、引き裂かれた長崎を象徴している面もある。天主堂の場所が、かつて江戸時代にキリシタンが踏み絵を踏まされた庄屋跡地でもあることから、その地に再建することは天主堂側にとっては譲れないことだった。長崎市議会は全員一致で保存を求めていたが、爆心地が長崎中心部から離れた浦上だったため、原爆被災を「キリスト教徒の多い浦上で起きたこと」と見なす市民も、一定数存在した。

山がちの長崎の地形も影響した。原爆被災の程度は爆心地からの距離だけでは測れず、その点、平地の広島とは大きく違う。市中心部が壊滅させられ、怒りに燃えた広島に比べ、長崎の中心部はむしろ、被災者の救護に回った地域だ。隣接した地域でも被害に濃淡があり、ひと固まりで把握しにくい。

今でも、被爆二世や三世でなくても、広島出身なので原爆の問題は自分にとって重要と話す人たちはいるが、長崎出身でそのように話す人は、広島に比べて少ないように私自身は感じている。

英米への留学経験もあり「国際派」の鈴木市長だから決断できた

つまり、ある意味自然に「一体」になってきた広島と違い、複雑な状況が重なる長崎にとって、分断の持つ意味は非常に大きい。だからこそ冒頭で書いたように、長崎市が、市民の意見を聞き、寄り添っていくことが重要なのだと言える。

祖父の田川市長もそうだったが、鈴木市長の両親も被爆している。90歳になった母親の鈴木智子氏の誕生日は8月9日。「母の誕生日でありながら、母の誕生日を祝えない、そういう8月9日をずっと過ごして参りました」と鈴木市長は語っている。

ただ、海外渡航がままならなかった時代に渡米した田川市長と違い、鈴木市長は国際派だ。鎖国していた江戸時代、出島のあった長崎は、海外とつなぐゲートシティだった。鈴木市長は、その出島の出身でもある。

柴田優呼『プロデュースされた〈被爆者〉たち 表象空間におけるヒロシマ・ナガサキ』(岩波書店)

運輸省(現在の国土交通省)の官僚となる一方で、イギリスの大学で国際政治経済学の修士を、アメリカの大学で国際法と国際関係の修士を取得もしている。国際社会の論理を政治的・法的に知悉ちしつした上で、どう自分の考えを持って行動するか、わかっていると見てもおかしくない。国際社会で広範な支持を得るには、筋を通すことはとても重要だ。それは、立ち位置や忖度や駆け引きを重視する日本の国内政治の論理とは異質のものだ。

核廃絶のスローガンとしてよく「ノーモア・ヒロシマ」と言われるが、これも実はおかしい。長崎が原爆で攻撃をされた時点で、既にそれは破綻しているからだ。本来、私たちが追求すべきは「ノーモア・ナガサキ」であり、それには長崎市の強いリーダーシップが欠かせない。「もの言う長崎」の今後が注目される。

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