ロシア軍の増援部隊は「ビル」を拠点にした
14日にブチャを再訪すると、現場となった貸事務所ビルの周りは地雷処理が終わっていた。私たちは警備員の許可を得て、裏手への通路をふさいでいた非常線の奥に入った。
地面に敷かれたタイルに沿って20メートルほど進むと、敷地の角に金網とブロック塀で囲われた車3台分くらいのスペースがあった。動画で見た通りの場所だった。
地面のアスファルトとタイルには、血が乾いてできたと思われる赤黒いしみがこびりついている。通用口の階段には、銃弾で砕けたような直径10センチほどのひび割れが9カ所あった。ポリ袋やペットボトルに交じって、ロシア軍の戦闘糧食を入れる緑色の紙袋が散らかっていた。
3月3日に進軍してきたロシア軍の増援部隊は、このビルを拠点にした。向かいに住む元溶接工セルギー(61)は、ビルと自宅を二度行き来させられたと証言した。
「通りで銃撃が続く中、小銃を手にしたロシア兵3人が、片っ端から民家に入って中の様子を確認していました。私が隣人と一緒に連行されたとき、上半身裸で、ズボンだけはいた男性3人が白いフェンスの前にひざまずいていました」
ビルの外で男性と女性・子どもに分けられて長い間立たされた。その間、数十台の戦車や軍用車両が通りをせわしなく行き来し、砲撃していたという。
セルギーはいったん帰宅が許されたものの、また兵士に銃を突きつけられて今度はビルの地下壕に連行された。「玄関を入ってすぐの廊下に、大量の血痕がありました。あらゆるものが壊されていて、いつも銃撃や爆発の音が聞こえました。ロシア兵が大勢いて、司令部になっているようでした」
地下壕にいた住民たちの証言
地下壕の中は人であふれていた。
「入った時は85人ほどでしたが、解放されたときは125人くらいになっていました。生後2カ月の赤ちゃんや妊婦もいました。私たちは人質にされたんです」
セルギーが地下壕に入って2、3時間は照明がついていたが、その後は真っ暗闇になった。
「狭かったのでずっと椅子に座っていました。換気扇を手で回して空気を入れ替えました」3月7日に全員解放された。姉妹の家に向かったセルギーは道中、2体の遺体を見たという。
「1人は歩道に倒れていて、もう1人は頭を撃たれて出血していました。2人とも民間人です」
知り合いに安否を尋ねると、周りの人が殺害されたという話が相次いだ。
「同級生は夫と孫を射殺されました。孫はスマホでロシア兵の動画を撮ったのが見つかったんだそうです」
買い物袋を手に通りかかった高齢の女性が話に加わった。一緒に地下壕にいたという元医療従事者リイバ・ズカー(68)の場合は、自らの判断で貸事務所ビルの地下壕に逃げ込んでいた。
「領土防衛隊の青年たちに『おばあさん、地下壕に逃げて! ガラス工場で戦闘が起きている!』と言われました。銃撃や爆発が相次いでいたので、ビルの地下壕に避難したんです」
だが、すぐにビル全体がロシア軍に占拠された。「私たちは最初、地下壕のドアにカギをかけたのですが、翌日壊されそうになったのでドアを開けると、ロシア兵が連行した住民たちを連れてきました。セルギーもその一人です」
その後、兵士が1時間ごとに見回りに来た。
「兵士は私たちに『ウクライナの国家主義者が住民を殺して、自宅を破壊している』とうそばかりついていました。私たちは『兵士ではないのだから解放して』と何度も訴えました。『母乳が出ないので赤ちゃんに食べ物が必要です』と言っても、兵士は『明日だ』というばかりでした」