ロシア軍のウクライナ侵攻で、キーウや周辺の街はどうなったのか。現地を取材したジャーナリストの村山祐介さんは「ロシア軍が去ったあとの街には、黒く焦げて肉片が露になった遺体が何体も道端に放置されていた。ブチャの集団墓地では体の一部があちこちから露出し、底知れぬ恐怖を覚えた」という――。(第1回)

※本稿は、村山祐介『移民・難民たちの新世界地図』(新潮社)の一部を再編集したものです。

殺気だった母からの電話で「侵攻」を知った

列車は2022年4月5日午前7時過ぎ、キーウ中央駅に着いた。すぐに自動小銃を持った兵士に身分証の提示を求められた。平日の朝だが構内はがらんとしており、行きかう人の表情も硬い。どんよりとした曇り空が、余計に重苦しさを感じさせた。

紹介してもらった設計士キリル・ダビドフ(33)と駅前で落ち合った。フロントガラスがひび割れた彼の古いボルボで、路上で遺体が見つかったというブチャに向かうことにした。

侵攻前は300万人が暮らした首都キーウの街は、もぬけの殻のようだった。幹線道路沿いの店はすべてシャッターを下ろし、人影はほとんどない。路上に鉄骨で組まれたバリケードがあちこちにあるが、兵士の姿はなく、キリルは慣れたハンドルさばきですり抜けていく。

「数日前にプーチンの軍隊がベラルーシに戻って、検問も減ってだいぶ運転が楽になりました」

それでも郊外に出ると検問待ちの大渋滞に巻き込まれた。キリルはその間、侵攻以来の日々をとつとつとした英語で語り始めた。

市内の集合住宅の9階に暮らすキリルは侵攻の日の早朝、近くに住む母の電話で起こされた。「爆撃よ!」と切羽詰まった声が聞こえたが、最初は「まだ寝てるんだから」と寝ぼけて電話を切った。

すぐにまたかかってきて、「起きて! 起きて!」という殺気立った声が聞こえた直後、ボン、ボン、ボンと立て続けに本物の着弾音が聞こえた。「何? 何? この21世紀に攻撃? ……正気じゃない!」

自宅の窓から外を見ると、眼下の軍事基地にあった装甲車両や輸送車が慌ただしく動いていた。基地への攻撃に巻き込まれないよう、泣き続けていた妻を連れてすぐに両親の家に避難した。

“激しい戦闘の最前線”となったブチャの街

ブチャはキーウから直線距離で約25キロ北西にあるが、車は南西に大きく遠回りしていた。何カ所目かの検問で待たされると、キリルはため息をつき、スマホの地図を指さした。

「ブチャは今、とんでもなく遠いんです。この橋は破壊されていて、ここも、この橋も。主な橋がすべて通れなくなってしまったので、車で行くにはぐるっと回るしかないんです」

橋を爆破したのは、ウクライナ軍だった。ロシア軍は侵攻直後、ブチャの北にあるホストメリの国際空港にヘリで空挺部隊を投入し、ベラルーシから陸路で南下してきた陸軍部隊が空港を制圧した。27日にはブチャまで進軍した。

これに対し、ウクライナ軍はキーウ西部で都市部と郊外を分かつイルピン川に架かる橋を爆破して車両が渡れないようにし、空港の滑走路も爆撃してロシア軍が使えないようにした。

首都制圧を目指すロシア軍が足場にした人口3万7千人のブチャ。首都を死守するためにウクライナ軍が背水の陣を敷いた人口6万人のイルピン。こうしてブチャ川を挟んで北と南に位置する二つの町は、キーウの命運を握る激しい戦闘の最前線となった。

イルピン川に架かる爆破された橋を訪ねると、まるで「車の墓場」だった。

片側二車線の取り付け道路に数十台がずらっと三列に並び、ほとんどがキーウの方を向いて止まっている。避難の途中で住民たちが置いていった車だ。車体に蜂の巣のように無数の穴が開いていたり、ひっくり返って運転席がつぶれたりしている。川に近い十数台はいずれも燃え焦げ、さびた鉄くずのようになっていた。

道路の先で、両端をスパッと切られたように長さ20メートルほどの橋の断片が川面に落ちていた。そこに落下したミニバンが突き刺さっている。落ちた橋の残骸は木片でつながれ、戦闘の間、多くの住民がその上を渡ってキーウに逃れていた。

落とされた橋の上には数十台の燃え焦げた車両が放置されており、「車の墓場」のように見えた(22年4月5日、イルピン)
落とされた橋の上には数十台の燃え焦げた車両が放置されており、「車の墓場」のように見えた(22年4月5日、イルピン)〈『移民・難民たちの新世界地図』(新潮社)より〉