オーストラリア移住と家族会議で出た結論
父の仕事の関係で、私が生まれてから3歳まで住んでいたオーストラリアのパース。息子2人と夫はそこで暮らし、私は東京で働く2拠点生活はどうだろう。そう夫に提案すると「とってもいい」と賛成してくれました。
そうして14年の2月に、夫と息子たち2人の生活拠点をパースに移し、私は東京で3週間働いて3週間パースに戻るという“渡り鳥母さん”の生活が始まりました。
その結果、夫婦関係にはさまざまな変化が起こりました。一番のプラス面は、決して英語が堪能ではない彼が、知り合いが一人もいない国で家を借り、インターネットを引き、子供たちを公立小学校に通わせて、寂しい思いをさせることなく新生活を立ち上げたこと。この人は頼れる人だ、尊敬できる人だと思えるようになった。これは大きな変化でした。
ただしその後だんだん子供たちが成長してきて、パパママの役割が減っていくようになると、再び私の古井戸の蓋が開いてしまったのです。18年くらいだったと思います。04年のできごとを、「なんであんなことをしたわけ?」と、再び問い詰めるようになりました。
そんな私に彼は、「申し訳なかった。俺なんか死ねばいい」と紋切り型で繰り返すばかり。でもそれでは思考停止です。私が求めていたのは謝罪ではない。彼にしてほしかったのは、自身がしたことと向き合って、胸の中にあるものを言語化し、可視化し……そしてそれがなぜ起きたのか、するべきことは何かを考えてほしかった。逃げずに考えて、行動してほしかったのです。
そんな夫との不毛なコミュニケーションがそれから延々続き、私のメンタルは限界に達していました。その年の12月だったと思います。日本で一人で過ごしているときにふと、あ、今なら死ねると思いました。親しい友人が自殺防止の専門家でもあるので電話をかけ、状況を説明すると「家族会議をしたほうがいい」と助言をくれました。年末にパースに戻ったときに、小5と中2の息子たちも交えた一家4人で、話し合いの場を持つことにしました。
そこで私は、過去に起きたことを子供たちに全部話しました。夫が何をやったか、なぜ私が辛いのか、夫婦の間で起きていることを説明しました。
「今私は精神的に追い詰められて、どうすればいいのかわからなくなっている。彼とはお別れしたいと思うけど、離婚は君たちの問題でもある。だから君たちの気持ちを聞かせてください」
息子たちの答えはこうでした。パパがしたことはひどいこと。だけどパパは僕たちにとっていいお父さんでもある。だから僕たちが大学に入るまでは離婚はしないでほしい。そしてママには死なないでほしい、と。そうして彼らが大学に行くまでは離婚せず、今の形の家族でいることになりました。
このとき夫に意見を聞いても、壊れた機械のように「申し訳ない」と言うだけ。そんな彼の姿に、哀れさを感じるようになりました。夫は特別な悪人ではなく、ごく平凡で善良な男性です。その彼がなぜこんなにも言葉を持たず、自分と向き合うことを恐れるのか。きっとこれは、彼だけの問題ではないはずだ。ここから私の関心は、誰が・何が夫をこんなふうにしたのかに向けられるようになったのです。
子供の頃、彼はどんな人生を望んでいたのか、何がそれを阻んだのか。私を壊した彼の行動は何ゆえだったのか。女性に線引きをして、モノのように扱っていい女性とうんと大切にする女性とを分け、全く異なる態度をとるような振る舞いを、彼は一体どこで、何によって学習したのか。人権という概念をなかなか理解できないのはなぜか。考え続けました。対象を研究することで、夫婦関係の苦しさから少しずつ自由になれることも知りました。
次にやってきた夫婦の節目はコロナ禍でした。約2年間、オンラインでしか会えなかったことで、関係にも変化が生まれました。自分や相手が死ぬかもしれないと思って夫婦関係を考え直してみたら、なかなか大きな存在なんだということもよくわかった。夫はあまりにも多くの経験を共有した相手でもあり、教育移住という大冒険を成し遂げた仲間でもありました。
同時に彼も、いろいろなことを考えたのでしょう。それまでも夫に人権とは何かとか、構造的な性差別や無意識の偏見について知ってほしいと、いろんな記事のリンクを送っていたんですね。つまり、妻を大切にしているつもりだった彼が、なぜ一方で「モノ扱いしていい女性がいる」と思っていたのか、その理由を自力で考えてほしかったのです。でもずっと反応はなし。ところがコロナ禍が始まった20年ぐらいから、だんだん夫が学習し始めるようになったのです。私が送った動画の意味がわかったと詳しい感想を知らせてきたり、知らぬ間に上野千鶴子さんの本を読んでいて、これ面白いよと私に勧めてきたり。借り物ではない、彼自身の素直な感想を文字にして送ってくれるようになりました。
そうしてちょうどコロナ禍が明け、世の中が回り始めたタイミングで、子供たちは大学進学し、私の日豪渡り鳥生活も今年で終わりを告げました。10年間オーストラリアで子育てに専念した夫も、「日本に帰ってまた働こうかな」と言うようになった。ちょうど去年の暮れに、じゃあ、今後どうします? と、あらためて夫婦のことを考える機会が訪れたんですね。
約束通りお別れという方法もあったと思います。でも2〜3時間の長い電話の結果、「また2人で暮らしてみますか」と、別れない決断をしました。
まだ経済的に自立していない夫を放り出すことはできないし、子供たちとの記憶をシェアできる人は、世界中で彼しかいない。あとはコロナ禍の間にいろいろ勉強してデジタルスキルを高めた彼と、これから一緒に仕事ができると思ったことも理由です。