武田氏との親密路線を選んだ信康

上の通説的な見解に疑義を提示したのが、近年の研究である。柴裕之氏の研究は、信康殺害事件を徳川家中および政治路線をめぐる闘争という観点から、事件を読み解いている。

そもそも家康は、路線が異なった信康を廃嫡に止めるのではなく、あえて殺害に及んだという。この事件のポイントは、ここにあると指摘する。

天正3年以降の家康は、織田方の尖兵として対武田氏の攻略に苦心惨憺していた。戦争は長期化し、その経済的負担も大きかった。それは、家臣や領民も同じであろう。

一方の武田氏は御館の乱(上杉謙信没後の家督争い)の影響もあって、北条氏とも敵対するなど決して安泰ではなかった。危機を感じた武田氏は、信長との和睦を模索し、併せて対徳川氏の政策つまり敵対する関係を見直そうとしたのだ。信康や築山殿に武田氏が接近したというのは、こうした政策転換にあったのではないかと指摘する。

信康と築山殿は武田氏と結ぶことで、徳川氏の将来に活路を見出そうとしたのである。

一方で、武田氏と敵対した北条氏は、家康に急接近していた(「静嘉堂文庫集古文書」)。この家康と信康の路線の相違が、両者の対立を生み出した。

家康は武田氏との戦争続行を主張したが、信康はこれまでの武田氏政策を見直し、接近を図ろうと考えた。徳川の家中は対武田氏の政治路線をめぐって、二つに割れてしまったのだ。

あくまで徳川家中の問題だった

このまま事態を放置すれば、徳川家中は崩壊する危機にあった。結果、先述した五徳が信長に送った書状の一件が発端となり、天正7年(1579)7月に家康は家臣の酒井忠次らを信長のもとに遣わした。

家康の意向は、これまでどおり信長に従い、武田氏との戦いを継続することだった。そこで家康自身が信康に真意を問い質した結果、自害を命じたということになる。その処分は、加担した築山殿に対しても同じだった。

渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)

つまり、信康の処分は、家康の判断によるものだったのだ。家康は信康らを処分することで、今後の親信長の路線を明確にし、家中の結束を強めたのである。

信康殺害事件は決して信長から強要されて、家康が泣く泣く信康に自害を命じたものではない。家康は信長に従って武田氏討伐の決定を堅持し、その方針に反する信康が家中分裂、つまり徳川家の崩壊につながると予想し、敢えて信康を切った。

こうした例は徳川家だけではなく、当時の戦国大名に見られた事例でもあり、家康が信長に命じられて、泣く泣く応じたという説は当たらない。家康による信康殺人事件は、あくまで徳川家中の問題だった。苛烈な性格だったという信長の命令ではなかったのである。

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