「国家の人材」を自負する早大生の行き先

十四年の政変で下野して改進党結成に参加した島田三郎は、東京専門学校議員であると同時に『東京横浜毎日新聞』を拠点とし、やがて社長となった。政治活動家であり、言論人であり、最高度の知識人である人々が創設し、運営する学校ということ。教壇にも姿をあらわす彼らの存在は、「国家の人材」を自負する学生にとってまたとないロール・モデルとなる。

村松忠雄の『早稲田学風』によれば、草創期の早稲田の学生は、東京の官立私立の学生の中で「最も弁論に長し最も文筆に巧みに、且つ一種のヂクニチーを保つ」と称せられたという。

彼らの演説の仕方、文章の書き方、さらにはディグニティ(威厳、気品)のあり方は、要するに改進党員でありかつ早稲田の経営者や教員でもある人々から伝染したものだった。

同書には「其演説議論及びヂクニチーなるものは、矢野小野鳩山嶋田〔島田三郎〕尾崎高田等の諸先輩が……社会の上に一種の異彩を放ちて、所謂『改進党気取』を始めしものが、次第に学生を感化し、学生をして同一スタイルたらしめたるによる歟」とある。

そして、学生が渇仰する政党人であり新聞人であり教育者である高田らは、多数の卒業生を自分の関与する新聞社に送り込んだ。石橋湛山が最初に就職した『東京毎日新聞』は『東京横浜毎日新聞』の後身であり(現在の『毎日新聞』とは異なる)、早稲田大学教員の田中穂積が経営に参画した新聞である(河崎吉紀「新聞界における社会集団としての早稲田」)。

こうした流れによって、明治末期にはメディアにおける早稲田の優位が公然と語られるようになった。

「天の川の星の数より多い」

早稲田出身の作家、河岡潮風は1909(明治42)年に著した『東都游学学校評判記』で次のように述べている。

尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)

「〔早稲田出身者は〕一体に政府の事業では左程成功して居らぬ。法科でも判検事弁護士にも得意の腕を振へるもの少なし。商科にしても当分は日本銀行や何んかに向かぬ……其代り、新聞雑誌業には日本第一の大便宜を有し、他校が勢力を張らぬ間に、この方面に発展したものだから、有力な先輩多く、陣笠連に至つては、天の川の星の数より多い位。北は雪深き樺太の涯より、南、生蕃躍る台湾の端に至るまで、新聞と云ふ新聞、雑誌といふ雑誌には、少くとも一両名は早稲田出身者がゐる盛況。操觚者たらんには、本校に敵する修養所はない」。

早稲田は政府や商業関係では不調で、法曹界でも中央や明治などよりも実績が劣った。だが、新聞・雑誌への進出は早かったため、どの会社にも有力OBがおり、ヒラ記者にいたっては星の数ほどいる。表現者を志すなら早稲田に敵う学校はない、と河岡はいう。

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