早稲田大学に「紺碧の空」という有名な応援歌がある。慶応義塾大学に対抗して生まれた曲だが、なぜ89年にもわたり歌い継がれてきたのか。元駅伝選手で作家の黒木亮氏は「歌詞と曲の歯切れのよさもあるが、ライバルである慶応の頑張りによるところが大きい」という——。
慶應に勝てない中、6番目の応援歌として誕生
先週のNHKの朝ドラ「エール」は、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」誕生の話で、数十万人の早大OBは、普段朝ドラを見ない人までテレビにかじりついたようだ。かく言う筆者もその一人である。大学の応援歌で、学外の一般人にまで広く知られているのは「紺碧の空」と慶応の「若き血」くらいだろう。
「エール」のストーリーは、ほぼ史実に沿っている。当時、慶応の野球部は黄金期を迎え、昭和2年秋に作られた「若き血」の大合唱で早稲田の校歌「都の西北」をかき消し、昭和6年春のシーズンを迎えるまで、11勝3敗と早稲田を圧倒した。それまで応援に替え歌を使用していた早稲田は、オリジナルの応援歌の必要性を痛感し、昭和3年秋から昭和5年春にかけ、山田耕筰、中山晋平、近衛秀麿といった当代一流の作曲家に大学当局などが依頼し、5曲を作った。しかし、「若き血」に対抗するにはほど遠かった。彼らの曲は室内で歌うのには適していたが、屋外で何万人もが歌うには迫力を欠いていたからだ。
昭和6年4月、公認されて間もない応援部が第6応援歌の歌詞を公募し、早稲田大学高等師範部3年生でホトトギス派の俳人だった住治男の詞が採用された。作曲は応援部員の幼友達で日本コロムビア専属の21歳の無名の新人、古関裕而に依頼した。予算がなく、ほぼ無報酬の依頼だったが、古関は大役に感激し、快諾した(朝ドラはこの点だけ事実と少し違う)。
1週間後、「紺碧の空」が誕生し、応援部員たちは力強さに感銘を受けた。新応援歌が披露されたのは、早慶第一戦の6月13日。ブラスバンドの指揮は古関裕而が執った。この春のリーグ戦では早稲田が2勝1敗で慶応に雪辱を遂げた。住と古関への謝礼は、海老茶地に白くローマ字で「WASEDA」と抜いた2円50銭の特製のペナントだった。