「渋沢なき資本主義」は「倫理なき資本主義」

泰西(ヨーロッパ)の商工業者は必ず契約を守るが、日本の商人は必ずしもそうではないということなのである。契約を守ることは近代資本主義社会の最低成立条件でもある。渋沢はまさに「そこから」始めなければならなかった。

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「商売は悪」の社会では商人はギャングと同じで、約束を守らなくても暴利をむさぼってもいい。非難はされるにしても、道徳に従えとは誰も言わない。道徳を守らないのが悪人だからだ。しかし渋沢は儒教にことよせて近代資本主義の道徳を確立した。企業がその利益を社会に還元すべきだという考え方も、一部の良心的な商人にはあったが、商工業界全体の倫理ではなかった。全体をそのように変えたのは他ならぬ渋沢である。

では渋沢がいなかったら、日本はどうなっていたか? 恰好の例がある。「渋沢なき資本主義」で一度は近代国家をつくった中国だ。孫文が清朝を倒した辛亥しんがい革命(1911年)である。

しかし、この「ブルジョア革命」はうまくいかなかった。倫理なき弱肉強食の資本主義が横行し国民党は腐敗堕落し、「資本主義打倒」をスローガンにした共産党にとってかわられた。そして今、中国共産党は資本主義を「採用」したが、相変わらず「渋沢栄一」はいない。

「倫理なき資本主義」が今後どうなるか、現代世界の不安定要因の一つであろう。

おわかりだろう、日本史に渋沢栄一が存在したこと自体一つの奇跡なのだ。

「新常識」をつくる天才の宿命

渋沢栄一の『論語と算盤』は今も読み継がれるべきかという質問には、「必ずしもそうではない」と私は答えるかもしれない。

ケチをつけるわけではない。

これは名著であり紛れもなく明治時代の日本にとって絶対に必要な書物だった。目的は商工業の世界に武士道つまり倫理を確立することである。それが成功したのは、日本製品の品質が世界で高く評価されていることからもわかるだろう。しかしこれが天才の宿命だが、極めて困難な改革を成し遂げるとそれが常識となるため、それ以前がいかに大変だったか忘れ去られてしまう。