直江津は金の卵を産む鶏

当時、日本の重要な港を指す言葉に、「三津七湊さんしんしちそう」というものがありました。三津は大坂の堺、福岡の博多、そして三重県の津(安濃津)、あるいは鹿児島の坊津を入れる場合もありますが、ともかく、この三つの有力な港のある土地を指します。

これに対して七湊は、すべて日本海側にありました。それだけ、当時の日本海の交易がいかに盛んだったかがよくわかりますが、そのうちのひとつが、上杉謙信の越後国にあった「今町湊(直江津)」だったのです。

日本海側でつくられる焼き物を積んで、蝦夷地(北海道)で売買すると、今度は蝦夷地で仕入れた海産物などを積み込み、直江津へと戻るわけです。さらに越後は青苧あおそという植物がつくられており、これを積荷として載せた船が京都へ行き、また交易を行います。

この青苧は、木綿が一般化するまでは衣服の原材料として広く重宝されていた品でした。直江津さえ押さえれば、このような海を通じた交易権から得られる利益を手中に収めることができます。

上杉謙信が亡くなったときには、上杉の蔵には莫大な金が蓄えられていたとされるほどですから、直江津はまさに金の卵を産む鶏だったのです。

春日山城は直江津を守るための城

地理的に見れば、現在の県庁所在地である新潟市はもっと東、県全体の中央に位置します。それに比べると直江津は西に寄りすぎており、越後国全体を治めるにはやや不便な場所とも言えます。しかし、そうまでしても自分の本拠として春日山城を置いたということは、やはり直江津を必ず押さえなければならないということだったのだと思います。

上杉謙信の肖像(写真=上杉神社所蔵/CC-PD-MARK/Wikimedia Commons

春日山城は、上杉謙信の居城にして、直江津を守るための城だったのです。ですから武田信玄が北信濃にまでその領域を拡大し、海津城を築いて、信頼を置く春日が虎綱をそこに置いたのも、10万石の同地で兵を養い、ここを拠点にして、隙あらば春日山城を攻め、直江津を手に入れて、海へ出ようとしたのではないかと思うのです。

ですので、武田信玄がどうしても手に入れたかった「○○○」とは、「直江津」のことなのです。

上杉謙信も直江津の重要性をよく理解しているため、繰り返し北信濃へと侵攻し、緩衝地帯として上杉領に組み込むべく、およそ10年にわたって川中島の戦いを繰り返したのです。