嘉子のすぐ下の弟・一郎も、しっかり者の長男だった

長男の一郎兄さんが、武藤の家では跡継ぎになるはずでした。一郎兄さんは姉の次にしっかりした人でした。長男なので、姉も一郎兄さんには一目置いていて、弟ながら頼りにしているという感じでした。

私は親父から小遣いをもらわないで、この兄貴から小遣いをもらっていたのです。でも兄は威厳がありました。たとえば靴を玄関で乱雑に脱いでいた時、親父もお袋も何も言わないけれど、兄貴は「おい、泰夫、何だこの靴の脱ぎ方は」とビシッと言うのです。「ちゃんとなおせ」って叱られましたね。

写真があります。姉が芳夫さんと結婚する前に撮影した写真です。きょうだいがそろっています。二人の間にいる小さいのが私です。

出典=『三淵嘉子と家庭裁判所』 嘉子が和田芳夫と結婚する前に一家で撮影した写真。嘉子のきょうだいがそろっている。嘉子(右)と芳夫(右から3人目)の間にいるのが泰夫(昭和14年。武藤泰夫氏提供)

麻布の家には、同郷の書生が入れ替わりながら三人くらいいたそうです。芳夫さんはその中の一人。明治(大学)の専門部を出て東洋モスリンという会社に入っていました。武藤家の書生をしていたのは明治の学生の時のことです。芳夫さんのおじさんと私の親父は中学が一緒だったんですよ。丸中(旧制丸亀中学)で同級生だったそうです。

父に好きな人を聞かれ「和田さんがいい」と答えた嘉子

当時、姉は弁護士になったから、嫁の行き先がないと親父やお袋が心配したのです。そこで親父が「お前誰か好きな人いるのかい」、と聞いたら姉が「和田さん(芳夫)がいい」と言ったのです。

芳夫さんはその頃にはもう就職していましたから、家を出て独立していました。武藤家にはたまに遊びに来るくらいで、付き合っていたわけでもないそうです。

姉から意外な名前が出たことに親父もお袋も驚きました。というのは、芳夫さんは書生の中でも一番おとなしくて静かだったからです。活発な姉とは正反対でした。それから東洋モスリンに勤めていた時は、肺を悪くして一年くらい療養していた時期があったようです。

姉から話を聞いた親父は、芳夫さんのところに行って「娘があなたのことを気に入っている。どうだ」と頼んだのだそうです。それで交際が始まりました。

芳夫さんは、それはそれはいい人でしたよ。まじめでおとなしくて、でも言うことはしっかり言いました。姉が尻に敷くような関係ではなく、仲のよい夫婦でした。

結婚してからは、最初池袋に家を借りて共働きをしていました。そこからそれぞれ職場に向かっていたのです。ただ、一人息子の芳武君が生まれてから、武藤家の実家に越してきました。