彦根城を残した大隈重信のひと言

その時点では、現存する天守や櫓、門は残されたものの、保存すると決められたわけではなかった。明治10年(1877)、陸軍少佐の飛鳥井雅古が、天守の保存についての伺いを提出したが、影響をあたえるには至っていない。その後、保存が決まった背景には、彦根城天守をめぐる動きがあった。

現在、姫路城天守と並んで国宝に指定されている彦根城天守は、明治11年(1878)9月に解体される方針が決まり、翌10月には解体用の足場も架けられた。

ちょうどそのとき、東海北陸巡業を終えた明治天皇一行が彦根近郊に宿泊。随行していた大隈重信が城に立ち寄り、天守を見て惜しいと思い、保存できないかどうか天皇に奏上したところ、同意が得られ、費用が下賜されることになった。こうして天守以下何棟かの建造物の保存が決まったという。

大隈重信(写真=早稲田大学図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

これに触発されたのが、陸軍省内で軍施設の営繕などを担当する第四局の局長代理、中村重遠大佐だった。明治11年12月、名古屋城と姫路城の保存を求める上申書を陸軍卿の山縣有朋に提出。これを受けて翌明治12年(1879)9月、陸軍省、内務省、大蔵省は、この2城を「全国中屈指の城」として、永久保存することを決めた。

50年も放置されて倒壊寸前に

しかし、保存の方針が決まったところで、それに要する費用は、わずかな一時金が支給されたにすぎなかった。大天守地階の補強工事などが行われたものの、大規模な工事を行うためには、予算がまったく足りなかった。そうこうするうちに、明治15年(1861)には、天守のすぐ南側の備前丸が焼失している。

その後も、天守や櫓、門などは、荒れるにまかされることになった。明治中期に撮影された古写真を見ると、天守の屋根には雑草が生い茂り、瓦はずれ落ち、壁は剥落し、まるで廃屋のように荒れ果てている。大天守と東小天守を結ぶ「イの渡櫓」の西側など、壁も屋根も崩れ落ち、倒壊寸前のようでさえある。

あまりの惨状を受けて市民のあいだに運動が起き、明治41年(1908)に「白鷺城保存期成同盟会」が結成された。その参加者らが国に粘り強く働きかけると同時に、姫路藩士の六男だった時の陸軍次官、石本新六中将の尽力も加わり、ようやく明治43年(1910)から44年(1911)にかけて、陸軍省による保存のための修理が行われた。