大奥のうち「広敷」は役人の武士だらけ

家康の頃には大奥は制度として定まっておらず、男の家臣も将軍の妻子が住む空間にある程度出入りが認められていたようだ。しかしやがて奥(中奥)と大奥のあいだは銅瓦塀で分断され、出入口は御鈴おすず廊下と称する渡り廊下のみとなる。

その名称の由来だが、綱を引くと鈴が鳴るしくみになっていたからというが、どのようなものだったかは全く不明である。ただ御錠口おじょうぐちという渡り廊下への入口は、九尺七寸(約3メートル)の頑丈な杉戸で閉ざされた。たとえその先に進んでも、渡り廊下を渡り切る手前に杉戸があり、大奥側から施錠されていた。

本丸御殿は明暦めいれきの大火で焼失したが、その後、火事のさいの避難用としてもう一つ渡り廊下が新設された(下御鈴廊下)。このため最初の御鈴廊下を上御鈴廊下と呼んだ。

大奥は御広敷おひろしき長局ながつぼね向、御殿向という三空間からなる。意外なことだが、広敷は男だらけだった。広敷は大奥の事務や警備にあたる武士たちがつめる場所なのだ。男子禁制というイメージが強い大奥だが、じつはそうではない。

ただ、広敷役人たちが奥女中(大奥で働く女性の役人)と自由に接触できるかといえば、そんなことはない。女たちがいる長局とは七ッ口で、御殿向とは御錠口で厳重に仕切られ、男の役人はここより先には入れないことになっていた。

女性官僚・奥女中のヒエラルキー

御殿向という空間は、将軍と御台所(正室)の生活の場であった。ここでは、奥女中たちが将軍や御台所の世話などにあたった。そして長局、この場所は奥女中が住むプライベート空間だった。

奥女中は、幕府の女性官僚といってよい。その職二十以上の階級に分かれていて、最高位を上﨟御年寄じょうろうおとしよりという。一般的には京都から輿入れした皇族や公卿出身の御台所に従って江戸にやってきた公家出身の娘であることが多い。

そんな職制で上﨟御年寄に次ぐのが御年寄だが、実際はこの役職が幕府における老中にあたる。格式的には十万石の大名に匹敵し、大奥を取り仕切るトップであった。よく時代劇などで総取締役という奥女中が登場するが、あれはフィクションである。