「生きる意味」をどのように獲得していくのか
クライミングによって「自分が生きている意味」を知る。その言葉を聞いたとき、私はそこに「その人にとっての極地体験」の意味があるのではないか、と思った。
「極地」には様々なイメージがある。北極や南極などの地理的な地点、自身の限界を超えなければたどり着けない場所、これまでの人生の全てを投じてなお、手の届かないかもしれない領域――。
私は「自分が生きている意味」をクライミングによって感じ取りたいという平山の話に、憧れのような気持ちを抱いた。「極地」に向かう挑戦をした者にしか語れない境地には、人間が「自分にとっての生きる意味」をどのように獲得していくのか、というプロセスを教えてくれる何かがあるのだとしたら――。この連載ではそんな問いを抱えながら、そのような体験がもたらすものを浮かび上がらせてみたい。
「デジャヴのような感覚、と言えばいいのかな…」
「……あの日、サラテのクライミングの中で、僕はこんなふうに感じていたんです」
平山は言った。
すでに20年以上前のクライミングの記憶にもかかわらず、彼はそれが昨日のことであるかのように話した。クライミングの時の動きを再現する彼の指には、そのときの岩肌の感触が未だ鮮明に残っているようだった。
――どんなことを感じていたのですか?
「デジャヴのような感覚、と言えばいいのかな……。それまでの2年間、あらゆるシチュエーションを想定して、トレーニングを続けてきましたからね。だから、『壁の中』にいるときは、何だか自分がすでにこの場所に来たことがあるような、すでに経験している壁を登っている感覚があったんです。もちろん、それでも『未知』の部分はいくらでも残っているんだけれど、その『未知』をトレーニングによってかなり減らすことができていた、ということでしょうね」
――サラテでの挑戦の場合、例えば、平山さんにとってその「未知」とはどのようなものだったのでしょうか。
「一つ例を挙げるとすれば、『花崗岩の壁を登る』という経験自体についてもそうです。花崗岩の壁を登っていくときは、石灰岩と違って不確定要素が多い。石灰岩の岩は起伏があるので、握って登れるんですよ。だから、フィジカルを鍛えていくと成功の可能性がかなり高まる。」