まず映画は映像美だってこと。映画では、ある状況を説明するときにいちばん簡単なのはセリフを使うことです。たとえば、映画のなかで子どもを亡くした親を表現する場合、親の同僚に「あいつ、最近、子どもが死んじゃってさあ」なんて言わせちゃう。それは簡単だけれど、でも、それじゃダメなんだ。セリフはあくまで映像をフォローするもので、状況は映像で示さなきゃいけない。それもなるべく細かいところまで考えた映像じゃなきゃ。この間、学生が撮った映画を見たんだ。学生は家族との交流がない父親を描いたと言う。その映像は子どもが庭で剣道の稽古をしていて、父親が縁側で見て見ぬふりをしているだけ。

ダメだよ、それじゃと言ったの。それくらいじゃ観客はなんのことかわからないよ、と。オレなら、子どもが素振りしていた竹刀をその場に置いていったとき、親が邪魔そうな顔をして放っておくか、それとも、ちゃんと立てかけてやるかで、親が子どものクラブ活動をどう考えているかを描く。映像はそういう細かいところを表現しなきゃダメ。

それと、とにかく学生たちを飲みに連れていく。この間は7人の学生を銀座のホテルに連れていった。フランス料理屋で5万円くらいの料理を食べさせた。オレが勉強しなさいって言ったのは、高級レストランではボーイがどういった動きをするか、どんなワインが出てくるかということ。現実を見ておいたら、将来、高級レストランのシーンを撮るときに役に立つでしょう。でも、帰りのタクシー代まで渡しちゃったから、えらい赤字だった。

映画って自分の知ってる範囲しか描けない。オレは下町の悪いところで育ったから、その町を描くとき、自分のイメージで撮ることができる。でも、いいところに育ったヤツは下町を知らない。だから、ワルがたくさんいる下町を描いた映画を見て、そのシーンを真似するしかない。

そんな具合に現実の姿を知らない映画監督はみんな過去のシーンを映し取ってくる。でも、かつて映画で見たシーンばかり使った映画は、絶対に過去の作品を超えることはできない。