我慢の限界

極めつきは母親だった。精神科に入院している母親は、病院から蓼科さんに頻繁に電話をよこしてくるようになる。初めは特に要件はなく、娘を心配する母親の体で電話してきていた。

ところが、母親から電話がかかってくるようになって数カ月。「あれを買ってこい、これを買って病院に届けろ」という“パシリ”のような要件に変化していく。

「母は、いたわりとたかりが混ざったような電話をしてきましたし、叔父によるたかりも継続していました。母のきょうだいでまともなのは母より2歳上の伯母だけ。母も叔父も“子ども”だと思います」

蓼科さんは25歳になったとき、それまでの働きぶりが認められ、正社員となった。

そんな頃、いつもの母親の“パシリ電話”にうんざりした蓼科さんが文句を言うと、たちまち母親は激昂し、「寂しいんだよ!」と叫ぶ。これが蓼科さんにとっては火に油だった。

「人にものを頼む態度ではないばかりか、寂しいからだなんて言い訳、母に置いて行かれた私には通用しません。私が一生懸命に働いて稼いだお金が、私を育てなかった人のタバコ代に消え続けるなんて、考えただけでゾッとします。我慢の限界でした……」

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蓼科さんは、「なぜあなたにお金を出さなきゃならない? 出すならお祖母ちゃんに出す。あなたを母とは思っていない!」と怒鳴り、電話を切った。それ以来、母親からの電話は無視し続けた。

一方、姪にお金をたかっていた叔父だったが、お金の出処を疑った伯母にバレ、伯母が叔父を諌めてくれ、たかられなくなった。

「今思えば私は、母と叔父に対し、収入のある方が上だと、ひそかにマウントを取った気になっていたのかもしれません……」

以降、叔父は伯母の計らいで生活保護を受給している。

修羅

それからしばらく経った2011年。突然、弁護士事務所から連絡があり、蓼科さん(37歳)は大きなショックを受ける。

長年別居状態だった継父を、母親(60歳)が包丁で刺したという知らせだった。

別居してから長年母親の成年後見人をしていた継父は重症を負い、「成年後見人を降りる。離婚する」と言っているとのこと。代わりに、「娘であるあなたが成年後見人になってくれませんか?」と事務所から蓼科さんに手紙で打診があったのだ。

蓼科さんは衝撃を受けた次の瞬間、母親から虐待を受けていたこと、そのことで感情的な葛藤があるため「断固拒否します」という内容の手紙を書いて送り、そのうえで電話をして断った。

事務所からの連絡を受けて以降、蓼科さんはこれまで出したことのない絶叫するなどして荒れ狂った。何もしていなくても勝手に涙が溢れ出て、止まらなくなった。

「いくら病気とはいえ、この母は社会ではとても生きていけない。あなたのことは私が始末しなきゃ」

「断固拒否」から一転、そう思い至った蓼科さんは、母親と暮らす家を探し始める。そこで人知れず母親を始末しようと考えていた。

それでも仕事中は平静を装い、がむしゃらに働き続けた。

そんな蓼科さんを救ってくれたのは、24歳の時に会社の同僚として知り合い、パートナーとして長年共に過ごしてきた8歳差の男性だった。パートナーの男性は、辛抱強く蓼科さんの話に耳を傾け、少しずつでも着実に蓼科さんが理性を取り戻すのを待ってくれた。