蓼科家のタブー
筆者は家庭にタブーが生まれるとき、「短絡的思考」「断絶・孤立」「羞恥心」の3つが揃うと考えている。
母親は、大学時代に出会った10歳ほど年上の大学職員と結婚したが、すぐに離婚となり、実家に戻った後、スナックで知り合った同じく10歳ほど上の男性とすぐに交際が始まった。母親からは、流されやすく場当たり的な様子=「短絡的思考」がうかがえる。
また、母親が子育てをしないため、祖母が代わりに蓼科さんを育てたわけだが、どう頑張っても祖母では年齢が違いすぎるせいもあり、幼稚園でも小学校でも、他の母親コミュニティに馴染めなかったであろうことは容易に想像がつく。
ましてや、母親が実家に戻ってからは、母親が頻繁に起こす近隣トラブルや仕事を辞めて引きこもり始めた叔父、祖母自身が信仰していた宗教などの事情も相まって、蓼科家は地域社会から断絶・孤立していたと考えられる。
最終的には蓼科さんが中学2年の時に、母親が起こした近隣トラブルのせいで母親は精神科に措置入院することとなったが、そのとき蓼科さんは母親を心底「恥ずかしい」と感じ憎んだ。
虐待の連鎖
弁護士事務所から連絡を受け取り乱してしまったものの、その後約3カ月を費やし、ようやく理性と平静を取り戻した蓼科さん。若い頃にできなかった心理学やパソコンの勉強を始め、高卒認定を取り、産業カウンセラーの資格を取得。2021年には東京で開催された「子ども虐待防止策イベント2021in東京」にボランティアスタッフとして参加。そうした経験が功を奏し、これまで苦手と感じていた人付き合いを負担に感じることがなくなり、自ら積極的に関わることができるようになっていった。
「2018年に89歳で亡くなった祖母は母親の代わりに私を育ててくれましたが、祖父と折り合いが悪く、私が物心ついたときにはすでに別居状態。精神的に不安定な人で、世の中に不安ばかりを見つけては私に『社会は怖いところ』と思わせてきました。母もそうした祖父母のもとで育ったために精神を病んだのかもしれません。
幸いなことに、私は働き始めたことをきっかけに経済的にも精神的にも自立することができ、現在はメンタルも安定しています。虐待サバイバーさんがよくおっしゃる、ひどい事をされたのに“親だから憎めない”というジレンマが私にはなかったので、深刻にならずに済みました。母親代わりの祖母にも逆らうことができたこと、自分より母の方が幼稚だということを早くから見抜けていたことも良かったのかもしれません」
中学卒業後にしばらく引きこもっていた蓼科さんだったが、祖母の年金だけでは祖母と叔父と自分が食べていけない現実があり、アルバイトを始めるしかなかったことも、その後の人生を好転に向かわせた。
「学校ではいじめられてばかりの私でしたが、『まともな大人はそんなことをしない』『労働にはきちんと対価がある』『私は社会に必要とされている』とわかりました。こうした経験は、私にかけられた祖母の不安縛りを解きほぐす妙薬でした。私は社会に育ててもらったと思っています。子どもの目の前で家族が暴れたりののしり合いの喧嘩をしたりするのは立派な面前DVであり、そんな母とは同じにはなりたくない一心で生きてきました」
蓼科さんには長年連れ添ったパートナーがいるが、虐待の連鎖を恐れ、「子どもは産まない」とすでに20代前半の頃に決めていた。
「母はもう、生涯病院から出られないでしょう。そして私はこの先も母を『お母さん』と呼ぶことはないでしょう。私に親の愛情が必要なときにケアしてくれたのは祖母です。だから親愛の情が持てないのです。離れて暮らすのがお互いの安全のためだと思っています」
蓼科さんの母親は短絡的に思考停止し、寄ってくる男性に甘え、祖母に甘え、娘に甘えて生きてきたために虐待を連鎖させてしまったのではなかったか。蓼科さんのように冷静に親を、大人を、社会を見つめ、「ああはなりたくない、なるもんか」と自分を律して生きることが、連鎖を止めるためのひとつの回答なのかもしれない。