「させていただく」に実は敬意はない
「させていただく」という言葉は1870年頃に出現しました。その後、120年たった1990年代に使用されることが増え始め、さらに30年たった今、「ブーム」となっています。なぜ90年代に使用が増加したのでしょうか。戦後半世紀たってタテ社会のタテ性が緩み、そうした社会の変化が言語に反映し始めたからだと考えられます。
なぜ「させていただく」を使うのかを調査したところ、人々は丁寧さと謙虚さを示すために使うと答えています。
では人々が「させていただく」に込めているのは敬意なのかというと、必ずしもそうではありません。本当に込められているのは、その場で対面している「聞き手」への配慮。相手に直接敬意を向けるのではなく、自分の行為を丁寧に表現することによって、間接的に伝わる相手への配慮なのです。戦後のヨコ社会的人間関係において、目の前にいる「あなた」の前で自分がどうふるまうのかが大切になってきたからでしょう。このような敬語を「丁重語」といいます。「利用いたします」の「いたす」の部分や、「弊社」の「弊」などが該当します。謙譲語と丁重語は自分がへりくだる点は共通していますが、相違点があります。謙譲語は相手に向けた自分の行為に対して用いられるので、敬意が相手に向かう「表敬の敬語」です。一方、丁重語は自分だけで完結する行為を示すので、敬意が直接相手に向かっていきません。つまり、丁重語は自分の丁寧さや謙虚さを示す「品行の敬語」なのです。「させていただく」は、もともとは謙譲語なのですが、丁重語への変化過程にあると考えられます。
品行とは、わかりやすくいうと、「自分がまわりから見て望ましい性質を持っている人間であること」を示す表現です。ですから「させていただく」は、相手に敬意を向ける謙譲語というよりも、自分の丁寧さを示すシン・丁重語として使われていると考えられます。
ですから「させていただく」は、「ポライトネス」の概念を使って相手との距離感を捉え、それを微妙に調節していると考えるとしっくりきます。「ポライトネス」という単語は「丁寧さ」と訳されることもありますが、丁寧という言葉とは少し意味の異なる専門用語で、特にコミュニケーションにおける対人関係や対人距離に関する事柄を指します。つまり「させていただく」は相手への敬意を表す敬語ではなく、実は自分のことだけを丁寧に見せる敬語なのです。相手が誰でも通用するため、便利で使いやすい言葉なのです。
「させていただく」を上手に使う3つのポイント
国語辞典編纂者の飯間浩明さんは、「させていただく」には「敬語の欠陥」を助ける働きがあるから多用されていると分析しています。「敬語の欠陥」とは、謙譲語がなかったり、へりくだった表現が作れなかったりすることです。
具体的には「帰る・使う・参加する・変更する」などのように、「お〜する」を使って謙譲語が作れない場合があることを指しています。そんなとき、動詞に「させていただく」を付けると、「帰らせていただく」「参加させていただく」というように、へりくだる言葉が作れます。「させていただく」は困ったときの「特効薬」として多用されているというのです。
飯間さんはご自身の著書で、「させていただく」の使い方には注意点があるとしています。その要点を私なりにまとめると、次の3つに集約されます。
①「謙譲形のある動詞は、それを使うこと」。たとえば相手のオフィスに行く場合、「伺う」という謙譲語がありますから「伺います」で済みます。それを「行かせていただきます」というと違和感がでてきます。
②「へりくだる必要のないところで使わないこと」。先日、私が旅行に行った際、ホテルの方から「今日のお造りは本鮪に加えて、タイと赤貝にさせていただいております」といわれました。一瞬、「ほかに何かもっとよいものがあったのに、タイと赤貝にしたということ?」と思ってしまいました。もちろん、ホテルの方は丁寧にいいたかっただけなのです。ただ言語学者の見立てとしては、「させていただ」かず、「今日のお造りはタイと赤貝でございます」のほうがわかりやすいと思います。
③「なるべく繰り返しを避けること」。ネット上の文章を見ていると、文章の中に「させていただきます」が4つも5つも入っている文章をよく見かけます。便利な特効薬とはいえ、これさえ使っておけば大丈夫というわけではありません。敬語にもバリエーションが必要です。