フランスで学んだ株式会社の仕組みを、とりあえず実践
フランスでこの2つの体験をした渋沢栄一は、帰国後に大活躍します。
当時の日本は、明治新政府が誕生したばかりで、欧米列強のような中央集権の体制が確立できていませんでした。
江戸時代の遺産である藩が未だ全国に残っているため、まずはこれを潰さなければなりません。
しかし藩を廃止すると、藩から家禄(給与)を得ていた武士たちは、生活することができなくなってしまいます。もし強行すれば、日本全国で大暴動が起きたことでしょう。
明治新政府はこの問題に頭を悩ませ、手を打てずにいました。
この問題を解決したのが、渋沢栄一でした。
まず彼は帰国後に、静岡で藩と商人たちによる「商法会所」(銀行と商社を足したようなもの)を設立し、新しい経済圏を生み出すことに成功しました。
フランスで学んだ株式会社の仕組みを、実践してみたのです。
もちろん、渋沢もフランスで学んだ金融や経済の仕組みが、すべて理解できていたわけではありませんでした。そもそも、フランス語もおぼつかない中で吸収してきた、短期間の知識です。
とりあえずやってみて、あとはやりながら訂正し、調整していこうと考えたのです。
見える景色が変われば、新しい状況が生まれる
渋沢の取り組みを評価した新政府は、彼を大蔵省に招きました。
当時の大蔵省のトップは大久保利通で、次官が井上馨(長州藩士)です。明治維新を成し遂げた彼らも、経済の問題はお手上げ状態でした。
「廃藩置県」を断行したのですが、武士たちへの給与を明治政府が肩代わりできず、国の中央集権化は遅れ、旧幕府の後始末に国家の財政は逼迫していました。
一刻も早い、中央集権化=「廃藩置県」が求められていました。
そこで渋沢は、フランスで学んだ「公債証書」の仕組みを採り入れ、「秩禄公債」という方法を明治政府の中で活用し、「廃藩置県」を実現することに成功したのです。
それまで藩が毎年支払ってきた家禄を整理したうえで、一定額を据え置き、即払いの代わりに利息をつけて、何年もかけて償還していくという方法です。
当然ながら、反発もあり、理論通りに進まない部分もありましたが、そこは「捗遣り」主義の本領発揮です。わからない部分で立ち止まることなく、渋沢は粘り強くシステムの構築・補強に取り組みました。
その結果、明治の日本は近代国家に生まれ変わることができたのです。
渋沢栄一はその功績を“薩長”藩閥政府に認められ、旧幕府出身者でありながら、例外的に“日本の経済”を託されたのでした。
皆さんも、ときにはわからないことはわからないまま、物事を進めてみてもいいのではないでしょうか。とりあえず、「X」「Y」「Z」と置きながら。
前に進んで、見える景色が変われば、その分、知識が増え、理解が進み、新しい状況が生まれていくはずです。