美空ひばりは11歳のとき笠置シヅ子のものまねで注目された

笠置の自伝『歌う自画像 私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)には、渡米のことも、ひばりのことも一切登場していない。また、史料によって笠置とひばりを巡る記述はいろいろ食い違う。

美空ひばり公式ウェブサイトの年表には、「1948年5月1日~」の項に「横浜国際劇場快感一周年記念特別興行で、子唄勝太郎の前座として出演、笠置シヅ子の『セコハン娘』を歌い、同劇場支配人福島博(後、通人)に認められる」とある。そして同年10月には「横浜国際劇場に笠置シヅ子が来演。同じステージで歌い、自分の物真似をおもしろがられ、可愛かわいがられる」とある。

この共演については、服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)にも登場している。同書では、笠置とひばりが同じ舞台に出演したのは、昭和22年(1947年)9月、横浜国際劇場でのこととされていた。ひばりは前座に「セコハン娘」を歌うといったが、笠置は「セコハン娘」を発売したばかりだったため(ブギはまだ出ていなかった)、同じ舞台で同じ曲を歌うのは困るということで、ひばりが『星の流れ』を歌ったとある(註:1947年10月に発売された菊池章子の『星の流れに』のことと思われる)。

美空を見て「子供と動物には勝てまへんなあ」と苦笑した笠置

スター歌手の新曲を前座の少女が歌うのは少々違和感もあるし、結果的に別の曲を歌ったひばりは観客に大いに受け、笠置も「センセー、子供と動物(いきもの)には勝てまへんなあ」と語ったとされているだけに、この時点では大きなトラブルはなかったようだ。

しかし、関係性が変化するのは、1949年に日劇に出演した頃から。

横浜国際劇場でひばりを見初めた支配人の福島博がひばりのマネージャーとなり、日劇に出演する際、稽古場にいた服部のもとにひばりが母親に連れられ、挨拶に来たのが服部との初対面だったという。服部自伝から一部引用したい。

「この子は先生の曲が好きで、笠置さんの舞台は欠かさず見ています。どうぞ、よろしくお願いします」とあいさつされた。横で、ピョコンと頭だけ下げてニヤッと笑った少女に、ぼくは不敵な微笑を感じた。この自分からすでに大物の片りんがうかがえたのか、ともかく、本舞台に現われたひばりの『東京ブギウギ』は歌い方も間奏の踊りも笠置そっくりで、観衆はヤレ『豆ブギ』だの『小型笠置』だのとヤンヤの拍手である。ぼくも舞台のそでで見ていて、その器用さと大胆さに舌を巻いた。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

服部良一(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1950年12月13日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons