2012年に出た自伝には「禁止されて悲しかった」とは書いていない
笠置がひばりに意地悪をしたとされるのは、まさしくこの『ひばり自伝 わたしと影』の影響が大きいのだろう。しかし、1971年に刊行された『ひばり自伝 わたしと影』と2012年に刊行された『美空ひばり「虹の唄」』(日本図書センター)とでは、書き方も、受ける印象もずいぶん違う。
『虹の唄』は冒頭で「いつわりのない自伝」として、あたかもこれこそが本人による初めての自伝のように記している。
同書によると、ハワイ、アメリカ公演で服部良一の全作品の演奏や歌を禁じられた当時、10万枚突破のヒット曲「悲しき口笛」をはじめ、持ち歌がすでにあったが「その数はわずか十曲足らず」だったとある。持ち歌がなかったどころか、すでにヒット曲も持っていたわけだ。
また、実際にはホノルル公演で二世楽団の隊長に「日本では、そうなっているかもしれないが、ここはここだ。だから遠慮なく“東京ブギ”でも“セコハン娘”でもうたって差支えない」といって証明書も作ってもらい、笠置の歌を歌ったそうだ。
ひばりにとって笠置は「一番尊敬している先生」だったが…
しかし、『虹の唄』によると、ひばりが横浜国際劇場に小唄勝太郎の前座で出た際、ある日、笠置も出演し、共演した。そして、写真も一緒に撮ってもらったことが、そのときの写真を添えて記されている。ひばりは「私が一番尊敬している先生です。うれしさに胸がいっぱい。笠置先生はいろいろ親切に面倒を見て下さいました」とし、そこから福島が“ベビー笠置”として売り込んだこと、自分も「大好きな笠置先生の歌」を喜んで歌ったこと、そのことで後に笠置と服部ににらまれることになったのだろうと推測している。
渡米に関して笠置は『サンデー毎日』(1950年11月5日号)の中で「『ブギの女王』アメリカ土産話」として、ハワイでもブギが歓迎されたこと、機内で服部にトイレの場所を尋ね、教えられた通りに行くと男性用だったが、恩師である服部の言葉に服従する癖がついていて気づかなかったこと、トレードマークの大口を開けずにロサンゼルスを歩いていたら、「あんまりおすましなので分からなかった」と古川電機の社長に言われたエピソードが披露されている。
また、「帰途、ハワイで飛行機を待つ二日間はエイ子(愛子のモデル)のことばかり、羽田についたら涙々でエイ子の顔が見えんかつたわ」と語ったという記述も見られる(『サンデー毎日』2015年1月18日[一億人の戦後史]『サンデー毎日』が伝えた「終戦の情景」ブギの女王笠置シヅ子を悩ませた税金と愛娘の子育て)。