楽しくラグビーをしていても日本代表になれた

長らくラグビー選手だった私は、「苦痛や理不尽を乗り越えてこそハイパフォーマンスが叶う」というこの考えを、懐疑的に捉えている。苦痛や理不尽を耐え忍んだ経験がないわけではないものの、選手時代の大半は楽しく愉快に取り組んでいたからだ。むしろ楽しめたからこそ19年ものあいだ競技を続けられたし、その結果として日本代表にも選ばれたのだと思っている。

しばしば伸び悩む時期は訪れたし、チームメートとのコミュニケーションに苦労したことも数知れない。不調に苦しみ、もがいたこともある。だが、主観的には耐え忍んだとは感じていない。ときに苦痛をともなう困難がありながらも、総じて楽しく、愉快にラグビーというスポーツに向き合ってきた。

スポーツをする上で厳しさが必要なことは否定しない。困難を乗り越える経験の積み重ねが人を成熟に導くことにも異論はない。

ただ困難を与えればいいというものではない

元プロ野球選手のイチロー氏が、学生野球を取り巻く環境について「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいになるかな。(中略)これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね」と言及している通り、まだ未熟な若者には、ときに厳しさがともなう大人の導きがいる。

イチロー(写真=Derral Chen/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

だからといって、ただただ困難を乗り越えればいいというものではない。

苦痛や理不尽などの厳しさを、本人がどのように乗り越えるかが大切だからだ。厳しさと対峙たいじする主体が楽しいと感じられなければ、スポーツ活動は単なる苦行へと成り下がる。

端から見れば苦痛や理不尽に顔を歪めているように見えても、心の奥底では楽しくてそれに取り組んでいる。いまはできないがいずれできるようになるという見通しのもとに、厳しい練習を自らに課す。心身がヘトヘトになりながらも継続できるのは、主体的には楽しんでいるからにほかならない。「苦痛や理不尽を楽しむ」というアクロバティックなこの心境こそ、成熟への階梯を上るためには欠かせないのだ。