「101匹わんちゃん」とクルエラ1人の命、どちらが重いか
功利主義的に考えれば、1人の人と1匹の犬を比べる必要は必ずしもない。最大多数の最大幸福を考えればよい。選好の度合い、重さで「101匹わんちゃん」の101匹のダルメシアンの死によって絶たれる選好と、ダルメシアンから毛皮を作ろうとしているクルエラ1人の選好の合計を絶ってしまう殺人と、どちらが重いか比較可能である。
人間と犬の命を秤にかけるものはいないだろうが、生命を選好の程度から捉えるならば、人間の生命も程度によって尊重されるに過ぎない。
選好功利主義の基準では、人間でもその他の動物でも生命の重さは比較考量可能な程度問題になる。自己意識に基づく生存権の議論では事情は異なる。
自己意識をもたない動物の生存の欲求は、有機体としての、生物としての存続の欲求である。同じ生存の欲求と言っても、生物としての欲求は、「自分は生きていたい」生存の欲求とは異なり、生存権で問題になるレベルの生存ではない。生存権で焦点になっている生は、単なる有機体、単なる生物としての存続以上のもの、心理的持続をもつ自己の生存、「私」の生存だからだ。
生存したいという「欲求」は、簡単に定義できない
たとえば、マッド・サイエンティストが、「私」の脳を再プログラミングして、今までの記憶とは別の記憶、異なる信念、性格を植え付けられてしまったと想定しよう。すると、もはやそこに存在している有機体は、有機体として生物としては以前と変わらないが、同じ「私」、自己ではない。それは既に私の人間(person)としてのあり方の消失、個人としての死を意味している。
大型類人猿に限らず、イヌでもネコでも、動物は生存を欲していないだろうか。自己意識に基づく生存権の議論に対して、疑問が生じるだろうと指摘した。疑問の背景には、生存の欲求を語るときに生じる意味の曖昧さがある。
そもそも、生存の欲求は何を意味しているのか。イヌやネコが生存を欲求しているならば、同様に木も生きる「欲求」をもって、太陽へと向かって生長していると解釈も可能である。
「欲求」は広い漠然とした概念なのだ。
トゥーリーは有機体レベルの生存の欲求と、心理的持続をもつ、個としての記憶と歴史をもつ自己のレベルの生存の欲求を分けた。生物に想定できるのは、生物として、有機体としての生存欲求である。一方、私たちが「自分は生きていたい」と語る生存は、過去からの心理的持続を保ち、同一にとどまる自己、自己同一性をもつ生存であり、その生存の欲求は自己意識が前提となる。
生存権の議論は、生存の欲求が意味する内容の曖昧さを払拭し、区別の明確化に貢献しているのだ。この点は、トゥーリーに始まるパーソン論の重要な功績として認められるだろう。