お互いにとって大事なことを相手に譲る

むしろお互いにとって大事なことなのだけれども、相手のために譲るとき、そこに感謝が生まれます。この人は自分のことを優先してくれた。だから、今度は自分もできるだけ相手に譲ろう、そう思い合える関係は、優しさを、感謝を、交換し合えます。いつもプラスサムとは限らないからこそ、時間をずらした交換によるプラスサムが可能になるのです。

今回の男性は、そもそも相手が我慢した上で、男性に100を楽しめる環境を作っていることに無自覚です。本当はパートナーだって機嫌のよいときの子どもと遊んでいるほうがずっと楽しいでしょう。パートナーはこんなふうに思っていたかもしれません。

「夫は平日は忙しくて子どもと遊ぶ時間も短いから、せめて週末に子どもといられるときの思い出をよいものにしてあげたい。後から振り返れるように写真も撮って、ぐずったときには私が面倒を見ればよい」と。ここには、一緒に生きたいと願う2人が両方勘定に入っています。それによって自分が損をする部分を、そもそも損だと捉えていません。

しかし、男性から「100から60になっちゃう」とか「子どもと向き合いたい」という言葉を聞いて愕然とするのです。「じゃあ、私の数字はどのくらいだと思っているんだろう。その40を使うと私がどのくらい嬉しくなるのかを考えたことはあるんだろうか」「楽しくて元気なときの子どもと遊んでればよいことを、向き合うって思っているんだ、そうなんだ……」「私だけが、私たちのことを考えているのだ」と。

それがいかに人と生きるための言語化とは真逆のものであるかを思い知ったとき、パートナーは別れを真剣に考えてしまったのでしょう。怒鳴ることもなく、キツイ言い方をするわけではなくとも、ケアに欠けた、孤独になる言語化は間違いなく存在します。

単なる写真撮影の問題を超えている

自分のことしか考えていないうちは、自分のことしか計算に入れることができません。「ごめん、これまで自分のことばっかり考えてきた。適当な写真ばっかり撮ってきて申し訳ない」と伝えるだけでは足りないでしょう。これは単に写真撮影をするしない、という問題を実は完全に超えているからです。

「普段、どんなときに自分ばっかり頑張ってると感じるか教えてほしい」とパートナーに聞いてみたらどんな言葉が出てくるでしょうか。

「寝かしつけも夜泣き対応もいつも私がやっているのに、お昼寝をするときにあなたに任せたら子どもより先に寝ていたとき」や「子どもが食べたいものはあなたが買ってあげるけど、こぼしたり、汚したりしたときは私が対応するし、あなたは鼻水とかも放っておいたりするとき」とか「誕生日のケーキのライターは私に持ってこさせるくせに、火をつけるのはあなたで、その様子を動画で撮っているのは私のとき」かもしれません。