※本稿は、中川瑛『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
「怒鳴ってしまう」理由や背景を明らかにする
例えば「怒鳴ってしまう」という現象があったときに、「本当に悪かった。なんで怒鳴っちゃうのかわからないけど、これからもう二度と怒鳴らない!」と約束する人のことを信じられるでしょうか。僕は信じられません。なぜなら「どうして自分は怒鳴ってしまうのか」その理由や背景を明らかにして、その構造を変えようとしていないからです。
ここからは、「怒鳴ってしまう人」の立場から説明していきます。
パターン、構造、メンタルモデル
システム思考では(いくつかの流派に分かれていますが)、出来事、パターン、構造、メンタルモデルといった分類をすることがよくあります。
「怒鳴る」が出来事だとすると、どんな条件が揃ってしまうときに怒鳴ってしまうのか? というのが「パターン」であり、その条件を頻繁に満たしてしまう状況が「構造」で、その構造をどこかでは自らが望んで選んでしまっていることを「メンタルモデル」と考えます。
例えば怒鳴るのは旅行をしているときに渋滞に引っかかってなかなか車が動かずイライラしているときかもしれません。すると、これがパターンとなります。「ああいうときに大体やっちゃうんだよな」がパターンであると言えるでしょう。
このケースだと、もはや「渋滞に引っかかってしまった」時点でパターンに入ってしまっていて、怒鳴ることをやめたくても簡単にはやめられないでしょう。周りの人は「あっ、これはいつものイライラから怒鳴るパターンだ……やだな……」と目配せを始めている場面です。
そうなるとそもそもなぜそのパターンが生じてしまうのかを理解する必要があります。それが「週末に旅行しているから」なら、それが構造だと考えることができます。
週末に旅行する限り、遠出をするときは渋滞を避けられないのです。こう考えてみると、週末の遠出をやめることなしには「怒鳴る」をやめられない、と考えることもできます。
そしてさらにはなぜ「週末の旅行」をしたいのか。そこには「週末くらいは家族サービスをしないといけない」という思いがあるからかもしれません。これをメンタルモデルと呼びます。さて、このあたりにくるとずいぶん現実の言語化がされてきたと言えます。
「なぜ怒鳴ってしまうのかわからない」から「怒鳴るのをやめる」という空虚な約束しかできない状況ではもうありません。「現実の言語化」は自分というシステムを理解することです。