「私の言葉」の次は「あなたの言葉」を聞く
「私の言葉」を作り出せたら、次は何ができるでしょうか。今度は尊重の言語化です。他のメンバーがどんなことを考えているのかを聞くことができるのです。「みんなは家族旅行を楽しんでる? なんか違うことがしたいかな?」と。
そうするとこんな返事がくるかもしれません。「旅行は毎回お父さんが怒鳴るからもういきたくない」とか「休みの日は家でのんびりゲームとかしたい」「家でお菓子を食べたい」などなど。
それを聞いて過度に落ち込んだり、怒ったりすることは「尊重の言語化」ではありません。なぜなら、相手が感じ考えていること、すなわち「あなたの言葉」を共有することを恐れるようになってしまうからです。
「私たちの言葉」を一緒に作る
相手から「あなたの言葉」を聞かせてもらえるように関わることが大切なので、そういった旅行を別に楽しんでいないし、行きたくないと言われたときに「そうだったのか、気づいてなくてごめんな」と言えるかどうかなのです。
そしてただ自己憐憫に走るのではなく「じゃあ、こういうのはどうかな?」とか「来週はそれをやってみよう」と言えるかどうかなのです。過度に落ち込むことは相手に罪悪感を与えます。怒るのは当然相手を萎縮させます。
萎縮させたり罪悪感を与えてばかりしていると誰も「あなたの言葉」を共有してくれない関係になります。相手が何に喜び何を嬉しく思うのか、どんなことに傷つき、どうすれば少しでも楽になるのか、そういったことがもう何もわからなくなるということです。
そうすると一緒にいる意味は何もなくなってしまいます。むしろそんな人と生きていること自体が苦しいでしょうから、相手は少しでも早くこの家から出ていきたいと思うでしょう。もっと「私の言葉」で話すことのできる人、「私たちの言葉」を一緒に作って、一緒に暮らせる場所を作れる人との時間を増やしたいと思うでしょう。
「もう旅行に行きたくない」「それより家でお菓子を食べたい」とはっきり言ってもらえる関係がいかに大切か。そして、それを「勇気を持って言わなきゃいけないこと」に決してしないことが大事なのです。気軽に言っていい、忖度をさせない、それは人間関係を作る上で決定的に重要です。
そこで「そうか。じゃあ今度の週末は近くのお店を探して散歩がてらお菓子でも買いに行くか」と言って、そうできたなら、「家族サービス」という言葉自体の意味が全く変わるでしょう。これは、一緒に生きていきたい人が一緒に生きていける「私たちの言葉」になるでしょう。これこそが共生の言語化なのです。