今ほど多様な宣伝媒体がまだなかった当時、不動産広告はこうした新聞や雑誌、あるいは折込チラシなどで出されるものが多く、それは都心部であろうと、へき地の分譲地であろうと変わらなかった。なお、次ページの不動産広告に分譲会社として記されている五宝不動産株式会社はその後倒産した可能性が高く、現存する同名企業とは異なる会社だと思われる。

投機的に売買された千葉県多古町の分譲地の広告。成田空港の開港に合わせ、買い手を煽る文句が並ぶ。(1971年7月31日付読売新聞)(出所=『限界分譲地』)

千葉県郊外はうってつけだった

宅地開発や分譲、あるいは別荘地の開発分譲などは戦前から行われていたが、宅地開発が急速に拡大するのは1960年代以降である。

戦後のベビーブーム、産業構造の変化に伴う都市部への人口流入、また戦禍によって焦土と化した都市部の市街地の復興に伴う需要増など、新規の宅地開発が加速した要因はいくつも挙げられるが、いずれにせよ結果として発生したのは、都市部における深刻な住宅不足であった。

もちろん国や自治体・行政も、そんな住宅難に手をこまねいて見ていたわけではない。例えば東京都の多摩ニュータウンや神奈川県の港北ニュータウンなど、官民合同による大型の住宅団地の開発も盛んに進められていたのだが、都市部への人口流入はそれをはるかに上回るペースで続いており、深刻な土地不足・住宅不足に陥っていくことになる。

需要が高まる一方、供給が限られているとなれば、市場の原理として当然価格も上がる。

戦禍の爪痕が消え、復興がさらに進むにつれて、開発用地は争奪戦の様相を呈していくことになる。潤沢な資金を持つ大手デベロッパーは、条件の良いまとまった土地を仕入れ、そうではない中小以下のデベロッパーは、それなりの価格の、それなりの条件の土地を仕入れていく。

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不動産が堅実な投資先だった

エンドユーザーには、そうしたデベロッパーが開発した高額の分譲地を購入し、当時は借入の要件が厳しかったローンに自己資金を組み合わせて、人生を懸けた買い物として住宅を取得する以外の選択肢がなくなっていった。

その分譲地にしても、条件の良いものは抽選が行われるほどの盛況ぶりで、予算に合うからといって必ずしも確実に購入できたわけでもないのである。高度成長期に向け、土地の取得熱は過熱する一方であった。

しかし、資産形成を夢見る庶民層にとって、年を追うごとに上昇し続ける不動産価格は、住宅取得のうえでは悩ましい問題である反面、投資の対象としてこれ以上ないほど堅実なものでもあった。