なぜ自治体は、野放図な乱開発を放置したのか

そのあまりに野放図な乱開発が問題視され、のちに線引きに踏み切ることになった千葉県の旧大網白里町や富里とみさと町(現・富里市)の例もあるのだが、当時乱開発のターゲットになった自治体の中には、どこかでその乱開発に、税収増や人口増、発展への期待を寄せていた面もあったのではないだろうか。

今、それらの地域に残された投機型分譲地の乱開発ぶりを見ても、そこに何らかの抑制が働いていた形跡を読み取ることはできない。ありていに言えば道路の形状もデタラメ極まりないもので、およそ計画性とは程遠い様相をさらしている。

ブルドーザーが土地をならす鳥観図
写真=iStock.com/Mr_Twister
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千葉県は、半島という地形上の制約から、もともと東京近郊部と、東京から離れた郊外・農村部において、交通利便性も含めた発展の度合いに著しい格差がある。

東京寄りの自治体において次々と宅地開発が進められ、ベッドタウン・郊外都市として変貌していく一方で、外縁部の小規模自治体にも、やがてその開発の波が押し寄せるのだろうという淡い期待を、分譲地の購入者はもちろん、地元自治体や、時にはそれを開発・販売していた側にさえ抱かせてしまう情勢にあったのだ。

右肩上がりの土地価格が最強の営業ツールになった

そうした当時の投機型分譲地の販売模様を伝える資料は、今となっては当時の新聞広告をしらみつぶしに探すほかはないが、70年代当時、これらの分譲地の販売手段としては、広告による宣伝のほか、営業社員による訪問販売という手法も採られていた。

各家庭への戸別訪問のほか、事業所、時には学校や行政機関などにまで不動産営業社員が出入りしていた。当時の営業模様を知る方の中には、むしろ広告よりそのほうが主流だったのではないか、と証言する方もいる。

その訪問営業の実態を、今仔細に知るのは困難だが、おそらく、新聞広告以上にその投機性を謳った勧誘が行われていたであろうことは想像に難くない。のちに詳述する、いわゆる「原野商法」の販売においても、販売手法は従来の投機型分譲地と全く変わらなかったからだ。

営業社員にしてみても、限られた資料の中で効率よく販売を行うには、利便性や立地を事細かに説明するより、土地そのものが持つ資産性や投機性を大雑把にアピールする方が話として手っ取り早いはずで、そして実際、それを裏付けられるほど土地価格が上昇していたのは紛れもない事実である。