「いつまでも元気に」と期待するほどつらくなる

少し前には、大学入学共通テストで活用される民間試験に関して、文科省の大臣が「身の丈に合わせて頑張って」と発言して、教育格差の容認だと批判を浴びましたが、本来、「身の丈に合った」とか「分相応」という言葉は、肯定的に使われていたはずです。

今は平等の社会なのだから、生まれや育ちに縛られる必要はないと言われれば、希望を与えてくれるように感じますが、一方で自分は何にでもなれるというような勘ちがいを生み、失敗する人を増やしているのではないでしょうか。

そのとき、「高望みをするからだ」と諭す大人がいればまっとうな生活にもどれるでしょうが、社会が悪い、政治が悪いと、人のせいにしだすと立ち直りの道は遠のきます。何でもかんでも自己責任にするのはよくありませんが、何でもかんでも社会のせいにするのもよくありません。

老いに関しても、現実から目を背けていると、実際の老いに嘆き、悩み、苦しむばかりです。快適な老いを実現するために必要なものは、一にも二にも現状の受容、すなわち足るを知る精神です。

欲望肯定主義に乗せられて、いつまでも元気で若々しくさわやかに快適になどと思っていると、目の前の日々は不平不満に塗り込められるでしょう。

「75歳で飛躍」の弊害

欲望肯定主義の世の中はまったく油断がならず、不幸と不満を増大させる勘ちがいを引き起こす“罠”に満ちています。その最たるものが、スーパー元気高齢者の活躍です。

もう亡くなられましたが、スーパー元気高齢者の代表といえば、元聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏でしょう。百歳を超えても現役の医師であり、晩年にもベストセラーの著作を発表し、テレビ出演もされていました。かつて日野原氏はあるテレビ番組で、次のように発言していました。

「65歳で助走がはじまり、75歳で飛躍するんです」

写真=iStock.com/Yuzuru Gima
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なんと希望に満ちあふれた言葉でしょう。しかし、現実的ではありません。むしろ、弊害が多いです。たとえば、せっかく引退する気になっている高齢の社長や会長が、またやる気になってしまったりとか。

「老害」という言葉はあまり使いたくありませんが、現実にはそこここでささやかれています。職場で頑張る地位の高い高齢者は、たいてい周囲には有害であって、当人はそれに気づいていません。中には、「若い者がどうしてもやめさせてくれない」などと言う人もいますが、そんな人にかぎって、裏では若者たちがリタイアを熱望しています。