紫式部が日記に書き残した中宮彰子の難産の様子
出産は座産だったから、前からと後ろから2人の女房が、産婦を抱きかかえ、介添えしたようである。出産直前になると、白木御帳から出て、寝殿の北の母屋庇にしつらえた御帳に入り出産する。この御帳の中には、母倫子と、女房の道綱女豊子、教通の乳母蔵命婦の3人が入っている。蔵命婦は、大中臣輔親の妻であるが、取り上げ名人で、道長の娘たちが出産するとき、いつも奉仕した、とある。経験豊富な産婆さんのような役割をする女性がいたようである。この2人の女房が、前後から抱きかかえる介添え役にちがいない。
彰子は初産でもあり、難産だった。ついに僧侶が呼ばれ、彰子の頂の髪を削ぐ。生命の危険があるときは、万一のことを配慮して、形式的な出家得度儀式をして、今生の加護と、後世の安楽とを願う。
11日の午刻、すなわち正午ころに、無事男子が産まれた。道長の待ちに待った皇子である。当時の日記には、道長が、
と語ったとある。
要求される男女の産み分け、貴族の妻はまず女児を期待された
12歳で、女の成人式である裳着をさせ、一条天皇に入内させたものの、一向に子どもが生まれない彰子に、ほぞをかむ思いだった道長にとって、男子の出産は、喩えようもないほどの喜びだった。摂関時代と呼ばれる政治形態の当時、天皇の外祖父となってはじめて本格的な政治権力を握ることができた。
一条天皇は、道長をひいきにしてくれる姉詮子の息子であり、甥ではあったが、しかし孫ではない。道長は、一条天皇のとき、摂政・関白に就任していない。彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇として即位したとき、道長は摂政に就任するが1年足らずで辞退し、息子の頼通を摂政にする。頼通26歳のときである。最年少の摂政だった。ここで、師輔―兼家―道長―頼通の家筋ラインが、ほぼ確立する。敦成親王がいかに貴重な親王だったかがうかがえよう。
彰子は2人の親王を産むことができたが、女子を産んでしまった妹・妍子は、道長のご機嫌をそこねている。1013(長和2)年7月7日、姸子は、三条天皇の子どもを産む。彰子の初産と違って、たいへん安産だったようである。ところが、女子であった。のちの陽明門院禎子内親王である。藤原実資の『小右記』には次のような内容が書かれてある。